沼田の歴史紹介。


沼田城跡御殿桜、は大きな木で沼田でも最も早く咲き、遠くから見えます、天守閣があれば良く見えたでしょう、今年から木のkaneそばは立ち入り禁止しに成り老木で手当てが良くしてあります、園内には小鳥、孔雀、猿、熊、が飼われている。
天守閣があった付近に鐘が再建されて、只今朝夕6.00時に鐘が鳴らされています。

伝説から見た沼田。
市.県.国.指定、沼田市の文化財。 [発掘調査で見つかった本丸西櫓東側の石垣と石段 ]

沼田公園の歴史沼田城の城主や城代ゃ代官の歴史

沼田公園は市民の憩いの場所、休日には大変に賑やかですが、昔はこの城をめぐり幾多の戦いが有ったようです。町の名も、鍛治町、西倉町、東倉町、馬喰町、鍛冶屋や蔵屋敷、馬屋が有ったのでしょう、城から馬がでる、お馬出し通り、

荘田城跡(沼田氏発祥の地)

沼田氏発祥の地である。天慶三年(940)に、利根氏は平将門討伐戦に加わり、戦後、平氏 の一人を伴って帰り、井土上の和田に館を建てて住まわせた。その子孫の経家以来、庄田氏・沼田氏を称した。経家と孫の大友能直と重緑の三浦氏が北条時頼に亡ぼされた際、一族の一人が逃れてきて、沼田景泰と称し城郭を築いた。小沢城に 移るまでの8代158年間の居城であった。往時は城跡外に荘田沼があり、幾多の物語を伝えている。現在は本丸跡に八幡宮がある。
荘田城跡。 三峰山の南麗に居た豪族利根平八は、天慶三年(940年)田原藤太に従って平将門討伐戦に加わり、戦後平氏の一人を伴ない帰郷し、ここに館を建てて住ませた。
七代の孫経家は平清盛から利根北勢多の庄官を命じられた。のち源頼朝の信任を得。三浦氏の女を妻にし、娘、利根姫は頼朝の子大友能直を生む。能直は建久七年(1196年)九州守護職で下向、大友氏の祖となる。三浦氏は宝治元年(1247年)北条時頼に滅ばされたが一族中の一人(家村か)が逃がれて荘田に来たり、沼田景泰と称し、縁類の大友氏の領を統治、城郭を整備して八代沼田景朝が小沢城に移るまで、158年間の居城であった。
小沢城跡

小沢城は三浦系・沼田景朝が応永十二年(1405)に荘田城から移り、小沢川の崖端に築いた城である。永正十六年(1519)に幕岩城へ移るまでの4代114年間の居城であった。東南は小沢川の崖、西北は内外二重に堀を構え、追手は北に開き、東側の「折」で側防されている。 京都の禅僧・万里集九の旅行記には「長享二年(1488)九月三十日、沼田館に着き鍛治町に宿る」とある。小沢城は沼田館・沼田城とも呼ばれていた。堀・土居等が隋所に残されており、中世の城跡としてきわめて貴重である。現在の薄根町田。

幕岩城 顕泰(あきやす)の父竜雲斎泰輝が多年住みなれた薄根町田の小沢城から、沼田高台滝棚の原に移ったのは永正十六年(1519)五月であった。約二ヶ年の歳月を費やして新たに構築した城を「幕岩城」という。その頃沼田の台地は「滝棚の原」といったが、滝は水が落ちることであり、落ちるということは城にとって不吉であるとし、これを「田北名の原」と改めたが、沼田氏が城を構築したので以来いつしかこの高台を「沼田」と称するようになった。 やがて沼田氏は泰輝から顕泰へとかわる。享禄二年(1529)正月二日、顕泰は、「三つの星が城中に落ちて、互いに喰い合いながら消えた」という夢を見た。なんとなく気にかかる夢なのでこれを三光院住職良真に占わしめたところ 「丑寅(東北=鬼門)の方向からこの城に対して悪魔がわざわいを与えようとしている。城をいずれかに移して城内に三星を祭るならばそのわざさいを退けることができる。」と進言したので顕泰もその気になりどこか適当の地はないかと物色したところ、薄根川と利根川の合流点にある要害の地、即ち現在の公園一帯が候補となった。ここは周辺が峻険な断崖であり、しかも眺望はきわめて良く正に文字通り要害堅固の地である。顕泰は翌三年三月十五日に城の普請に着手し、三年目の天文元年(1532年)春に落成、その四月の吉日を選んで幕岩城から引移ったのである。「幕岩城」に居たのは僅か十三年という短い期間であった。資料沼田万華鏡より第16号、幕岩城は 柳町、材木町より北に薄根川に進み坂に成る手前の右側。

沼田城跡(沼田公園)

沼田城は天文元年(1532年)沼田顕泰が約3年の歳月を費やして築城した。沼田城は・・当時は蔵内城のちに倉内城と称し沼田市街地発祥のかなめで当市の歴史の起点でもある。築城して48年後の天文八年(1580)に武田勝頼の武将真田昌幸が入城し城の規模を広げた。 天正18年(1590年)に昌幸の嫡子信幸が城主となる。 信幸のちに信之と名をかえる。
関東北辺の小さな山城であったが、三方を急流と断崖に囲まれた自然の要塞であり、また関東と越後、会津を結ぶ交通の要衝として、戦略的な価値は大きく、しかも沼田氏の内紛により城主朝憲が謀殺されたため、北から上杉、南から北条、西から真田の各勢力が進出し激しい争奪戦を展開した。
天正18年(1590年)真田家初代城主となった信之は城郭の拡張を行い二の丸、三の丸を築き、水手曲輪に大門を建てた。
さらに慶長12年(1607年)五層の天守閣を造営し、その威容は天下の名城「霞城」と称された。しかし、天和元年11月五代城主信直が改易となり、翌年正月幕府により威容を誇った名城は破壊された。
元禄16年(1703年)本多正永が幕府の交付金で城を再建し、その後黒田氏、土岐氏の居城となり明治になって取りこわされた。
現在三の丸跡には学校・民家が建ち、本丸、二の丸跡は公園に変貌した。


城鐘(沼田公園)

寛永11年(1634年)二代城主信吉が鋳造し場内三の丸の桜に吊りさげて真田家隆盛と領内安泰を祈願して撞き鳴らした。その後城の破却により浮沈の運命をたどったが、昭和29年県指定重要文化財となり、現在沼田公園内に復元された鐘楼に吊り下げられ朝夕6時に撞き鳴らされている。


平八石(沼田公園)石の由来
真田昌幸が沼田平八郎景義の首を実検の後、載せた石。

沼田平八郎景義の首級を載せた石、平八郎は沼田城(蔵内城)を築いた沼田氏12顕泰側室の子で、摩利支天の再来とまでいわれた勇将。顕泰は城を嫡子朝憲に譲り、平八郎を連れて川場村天神城へ隠居したが、側室とその兄金子美濃守らにそそのかれて、永録12年(1569年)正月朝憲を呼びよせて謀殺。そのため顕泰、平八郎は沼田勢に追われ会津へ逃げた。平八郎は12年の沼田城奪還の兵を挙げて沼田に迫った。 真田昌幸は戦っては平八郎に勝てないと知り城中に居た金子美濃守をだました。貧慾な美濃守は己が栄進したいため平八郎に会い武装を解き、こっそり城内に入れて「お前が必ず城主になれるようにしてやる。」倫り城内へ誘い入れて殺害した。風雲児の最後また哀れだった。時に天正9年(1531年)3月14日(一説は15日)平八郎の首級は昌幸が実検の後、この石の上に置いた。亡骸は町田町の小沢城址に葬り、沼田大明神として祀ったが首級は此処から亡骸を埋めたところまで飛んで行ったという。(公園の説明文より)


大連院殿の墓(正覚寺)

大連院(小松殿)は、徳川四天王の一人本多平八郎忠勝の娘に生まれたが、徳川家康の養女となり、天正17年(1589年)9月17歳で信之に嫁いだ。会津攻めの陣中で石田三成に請われ西軍へ組した昌幸、幸村父子が佐野犬伏から兵を返して沼田城へ入ろうとしたが、薙刀小脇に入城を拒んだという勇ましい逸話も残されている。
そして関ヶ原の役の後は、昌幸、幸村父子の助命に尽力した。元和2年信之が上田へ移封された為共に沼田を去ったが、4年後江戸で病にかかり草津へ療養に向かう途中巣鴨で死去した。


鈴木主水の墓(正覚寺)

名胡桃城代鈴木主水は、天正17年(1589年)11月北条氏沼田城代猪俣能登守に城を奪われた責任を負い、重臣と共に正覚寺で自刃して果てた。豊臣秀吉はこの北条氏の不法行為を口実に北条征伐を行い小田原城を攻め落とした。 また嫡子右近は、京都真田屋敷の留守居役を務め、信之のために尽力した。

沼田城跡の面影、大蓮院の墓「小松殿」、鈴木主水の墓「名胡桃城代」
沼田市の資料より。



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