遺跡

名胡桃城の概要  小沢城跡  岩櫃城跡  牛伏山、一郷城跡  長井坂城跡  水牢の跡   中山城跡  箕輪城跡  白井城跡 
山上城跡  明徳寺城跡  樋[火]塚古墳  尻高城跡 

川田城跡

川田城は、三浦系沼田氏六代景久の四男・川田四郎景信が分家した際に築いたと伝いられる。現在の川田公民館から北は遷流寺、東は薬師堂にまでまたがる広大な地域であった。応永十三年(1406)に群馬郡国分の村上出羽守に攻撃されたが、信光・信清と続き、天正七年(1579)に小田原北条氏、同八年に真田昌幸の進攻で滅亡した。城は真田が再興し、山名信濃守を城主にした。同十年から十六年までは北条勢の来攻で戦乱が続き、信濃守の子主水ほか郷侍が多く討死し、城は荒れ果てた。後に真田氏家臣の小林文右衛門が住み、真田伊賀守改易後は、家臣の加沢平次左衛門がこの一角に住み生涯を送った。


名胡桃城跡の説明文の追加11月14日載せる。 名胡桃城跡 「利根郡月夜野町 月夜野バイバスを沼田方面より行くと利根川の橋を渡り坂を登り切ると平らになってまもなくの所」


名胡桃城の由来

明応元年(1492)頃、沼田城主沼田景久は、その子息を名胡桃・小川・川田・石墨の各地に配し領地拡大を図ったが、まだこの地に城郭は築かれていなかった。 16世紀半ばになり、利根沼田地方は上杉氏・北条氏等入り乱れ、戦乱の渦中にあっつた。天正6年(1578)に沼田城が北条の手に落ちたことにより、利根川左岸は同氏の勢力圏となった、これに対して上杉・武田方の真田昌幸は、渡河点鷲護と沼田城奪取の基地として、利根川右岸にこの城を始め諸城を築城したものと思われる。また、この城の城代は鈴木主水重則であった。 天正7年(1579)い、北条勢は二度に渡りこの城等を攻めたが、いずれも敗退している。しかし、その翌年真田勢はこの城から攻め出して、難無く沼田城等を攻略している、その後、当地方の大部分を真田領として手中に収め、この城は岩櫃城と沼田城の中継地となっていた、また、天正14−16年(1586−1588)の間、この城とその南側の山頂にある北条方の権現山(榛名峠)城は再三再四対立していて戦闘が絶えなかった。 天正17年(1589)に、豊臣秀吉は北条氏の上洛の条件として、真田氏に替地をあてて沼田城等やその一帯の領地を北条氏へ渡したが、なぜかこの城だけは真田氏の要望によりその所領として残された、北条方の猪俣邦憲等はこれを不満として同年11月にこの城を攻略した。 たばかれた鈴木主水は、沼田において自害している。豊臣秀吉はこの報を受け激怒して、以前から不信の念と相まって北条氏に宣戦、その翌年同氏を攻め減ぼした。 この事件に関しては問題が複雑であるが、いずれにしてもこの城は、豊臣氏に天下統一をもたらし、当地方における乱世に終止符を打つことになった、小田原征伐勃発の口火を切ったことになり、記念すべき重要なものである。その後当地方一帯は真田領としてその支配下にあったが、真田氏の沼田城安泰により、この城は廃城になったものとも考えられる。


名胡桃城の概要

この城は、利根川、赤谷川の合流点の南西段丘上に位置した崖端城であり、河川との比高は50メートルである。両側が断崖で尖鋭に突出する尾根を掘り切った尾根式山城の様相をもつ並郭式構造を呈していて、南西方向は平城部が続いている。各々の郭についての説明は、下図に記したとうりである、また、この城の南1キロメートルには190メートル高く富士山(天狗山)があり、のろし台として抑えられていたと思われる。 当時の建物は、北条氏の文献に「百姓屋敷」とあるように、他の戦国時代城館址における戦略上拠点と同様、粗末な掘っ立て小屋であつたと思われる。

       


小川城跡「新幹線・上毛高原駅近く」500m程


  11.9日小川城跡(小川城址とあった)、に行ってきました、名胡桃城跡から2km、信号を右折(国道291号)月夜野町の上毛高原駅(上越新幹線)の500m程手前の所にありました、本丸跡は名胡桃城と同じ位で、二の丸、三の丸、は畑で良く分からなかった、道路が二の丸の端でそこから階段で降りて(お堀)上がると本丸だった。名胡桃城は本丸に行くには人一人通程の狭い道(土橋とか書いてあった)両側は堀で急になっていた、秀吉の時代から良く崩れもせず堀が残っていた、400年以上前の、小川城跡は名胡桃城から見えたかもしれない、天守閣からなら、道なりで5,6km直なら4,5kmかな、次回には詳しい事乗せます。この城は沼田氏が荘田城の時北の守りに作ったとか。

小沢城の由来「案内版より」

  足利時代、この地は小川郷として呉胡桃郷と共に村落が開け奥利根ひいては裏日本を扼す戦略上の拠点として重要なところであった。 北上州の雄沼田荘田城主沼田景久が西の備えとして此処に築城したのは明應元年(1482)で箕輪城に先立つこと三十四年、京に在っては 足利幕府の勢力もおとろえ各地に土一揆等の蜂起を見、世情は飢えに苦しんでいた。此の時、沼田景久はここに二男の次郎景秋を七百貫匁(約3,500石)位と言われている知行を与え 住まわせ、北毛経営を固めていたが、其の後、文亀二年(1502)正月二十六日二代城主小川三郎景祐はもとより素行優れぬ城主なるため度々の狼籍に城を追放され其の後赦免となる。又、大峰山岳林寺の開基等を行ない反省の色あるやに見えたが再びの 乱行や沼田本城への討入り等狼籍の果てに落命した。景祐敗死後は、弟秀泰が三代城主となり城を譲る。小川秀泰は勇将にして岡林斉と名乗り信望を集め沼田七騎の一人としてその名を馳せた。其の後、大永二年(1522)秀泰死去しその子彦四郎景奥の代となり小田原の北條氏の勢力も次第に北関東の奥まった利根の地にもその手を伸ばしてきた。度重なる小競合ひの中で、彦四郎景奥の長子景秀は若くして兵火のため焼死しその時は永正十七年(1520)九月五日の真夜中の事でした。更に大永四年(1524)の戦闘には城は焼かれ大将景奥も煮えたぎる酢がめの中に落ちて戦死し家を継ぐべき子息なくその門葉の北能登守南将監等城の修覆をなす。その頃上方より北面の武士(京都御所警備)浪人して此の地に来る。即ち赤松則村の(斉 ?) にして赤松捨五郎祐正と言う。客分として城内にとどまるうち次第に軍議にも加わりその才を認められ後に景秀の後家と女合せ上杉謙信の裁可を得て名跡となり小川可遊斉と名乗る。天文十六年(1547)三月十五日の沼田勢との菩提木に於いての合戦に沼田勢は敗退逃走した。天正八年(1580)三月小川可遊斉は小田原の北条勢竝に沼田勢と菩提木に再度戦ひ、可遊斉の戦略にかかり大敗北をなし逃走し可遊斉の名声を残す大戦果をあげた。この報告を聞いた北条氏邦は大いに怒り同年十月数倍の兵力を以って小川城を攻む。小川可遊斉以下将兵は激戦苦闘のすえ城は焼かれ多数の戦死者を出し、為に城をすてて兼ねて用意の見城の棚にのがれ残りの将兵も続いて棚に入る。小川可遊斉は此の棚に在って指揮し大木大石等を投落し敵を悩ますも七百米もの高山なれば水や糧秣等の補給困難にして須磨野口より越後路へ敗走した。小川城には城代として小川氏門葉の一人北能登守が居り真田昌幸の配下として天正二十年(1592)頃迄在城した。其の後何年か城代不明の時期を過ぎ沼田真田氏の五代城主となった幼名兵吉は寛永十五年(1638)より十八年間真田伊賀守信澄となり五代沼田城主を継ぐまで三の丸の陣屋に居住した。其の後は廃城となり顧みられる事なく永い年月を草木の中に埋もれていた。

万騎峠



  中之条より来て大戸「関所跡」を右折して国道406号、進と須賀尾、家並みから昔の宿場だたような家ばかり並んでます、さらに進み清水部落を真すぐ進み1kmほど行ったところを左に折りぐねぐね曲がったみちを進むと峠が万騎峠です、そこは応桑、北軽井沢も浅間山も目前に丸見えです。昔の参勤交代の行列も通った道のようです。写真をクリックすると拡大写真に成ります。地図「エアリアマップ」昭文社1988.5、には道が載ってない。

岩櫃城


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  吾妻の岩櫃城は   岩櫃山の東側に有り、只今は、その所は、杉の木の山になっています、本丸跡、 一の丸跡、二の丸跡、三の丸跡、と昔の人々の残した跡があります、山の斜面の 所を段々に掘り水がないから、空掘りで有ったのでしょう。そこから北側に出る と、沢が有り大小の石が段々に有り、杉の弐、三百年成程の木、または大きなモ ミの木が沢を登って行くとある、水も小さな小川程流れている、ハイキングコー ス、には、一寸きついかな、登山と言うには楽のコース、でしょう、でも尾根づ たいのコースは、一寸本格的の登山ルートになります、岩櫃城跡から、岩櫃山、 頂上まで沢の方から登って、二時間程かかりました、「行き方は、国道145号吾妻郡原町JR吾妻線と沢を越える立体交差の下、原町の旧道を右折沢ずたいに登っていくと城跡の観光案内がある、駐車場もある。」

  天正八年(1580)沼田城入城のとき岩櫃城は武田勢の真田昌幸が攻略し中山城ともに沼田城攻略の拠点だった城代は真田一族の海野幸光、 沼田城代に藤田信吉、二の丸に真田一族の海野能登守輝光。兄弟をねたむ者の策略に落ち、矢沢頼綱(真田昌幸の伯父)が名胡桃城代「鈴木主水」事件の時は岩櫃城城代をしている。

  岩櫃城、この城は、本城、天狗の丸、柳沢支城、平沢の根小屋から成る複合城郭で、類例のない特殊な構造を示す。本城の中央部は、指揮中枢の本丸と、作戦拠点の二の丸であるが、二の丸を焦点に放射する数条の竪堀は、敵の横方向の行動を防げるだけでなく、ここでは、城兵の出撃路である。最大限の攻勢防御示の縄張りを示す。尚、柳沢城の重複梯郭構造、平沢集落を縦横に走る堀跡もある。

  吾妻記、加沢記が城史をくわしく伝えているが、永録のはじめ斉藤氏が築き、同6年(1562)武田の先鋒真田幸隆が攻略、天正3年(1575)その子昌幸の城となり、昌幸の子信幸は、慶長18年(1613)城を廃した。或いは元和3年(1616)ともいう。

    岩櫃城略史その2
  鎌倉時代の築城にして吾妻氏之に拠り貞和年中吾妻太郎行盛の時碓井の里見氏に略収され約10年の後、行盛の遺子千玉丸之を回復し、上杉氏に属して、斉藤越前守憲行と称し伝えて6代基国に至り永録6年冬武田氏の将真田一徳斎幸盛に攻略されたと言う。
  基国領民の安否を気遣い神照坊大天狗と化し、岩櫃城へ飛び移り旧領地の人民を保護した。これが岩櫃天狗神社の祭神である。
  その後真田領となったが慶長19年大阪冬の役1ヶ月前に、城下平川戸に市をたてた際、いつもより多くの人が集まり賑わった。徳川家康はこれを真田の残党が挙兵する前兆ではないかと疑った。早くも家康の心を見抜いた時の城主真田昌幸は長男伊豆守に命じて破却した。かって真田領内三名城の一つとして誇った岩櫃城もここに姿を消したのである。


新田義貞公首塚

新里村 「地図から新里村新川の十三塚付近です。」


  新里村に、あの室町幕府の源氏の源 頼朝を討つた、新田義貞のお墓があった、天台宗 善昌寺の裏に義貞の家族か ?大きなお墓を、真ん中にして両脇は、やや小さくその外はもっと小さく、小屋をかけて有った。群馬から大軍を率いて、鎌倉の江ノ島の方向から海から攻め込んだと、歴史の時間に教わった、その時刀を海に投じた、すると見る見る海の水が引き、海は、刀を投じたら私の願いを聞き水を引いてくれた、神は私の味方をしてくれる、勝ち戦だと、言い全軍を 率いて頼朝軍を、倒した。群馬の兵は海の水が引く、引き潮を知る者はなく、神が味方して水を引いてくれたと、元気百倍で攻め、勝利したとききます。
その、義貞が葬られています。群馬の英雄、新田義貞の話。



新田義貞公の誕生の里


  新田義貞公の誕生の里の案内があった、丸太の側面を削った高さ2.5~3m程の物に新田義貞公誕生の里と書いた案内柱がたっていた、場所は榛名町下里見、箕郷町から白岩、高浜を通り烏川の中河原橋を渡って200m程の所の右側、車で通り目にした。



牛伏山 (戦国の烽火台)


  牛伏山 (海抜491m)吉井町の西方向の山の上に天守閣が見える、高速道(信越道)を走ると目に飛び込んでくる、アンテナとお城、山城かな、とふと思っていた、2月22日仕事で行った、吉井町も赤松の松枯れが多く駆除が遅れてて、大分枯れたのがみえた、牛伏山の松が枯れて道路に落ちると危険な為、危険な所の松を切て駆除した、牛伏山は高台なので見晴らしが良く、前橋方面の夜景も奇麗でしょう、登る道路側は桜の木がいっぱいだったから、桜の花の咲く頃は、花で見事でしょう、山の頂上に天守閣があり、そこから500m程先に、神社があり琴平山大権現を祭ってある、初日の出を見ながらの初詣も良い所でしょう、戦国の歴史に付いて牛伏山展望台の説明板より、牛伏山は、標高491m、万葉集に「多胡領」と詠れ「多胡美人」と呼ぶ朝日岳、羊太夫ゆかりの八束山と合わせ「吉井三山」といわれる、三山の主峰で、その姿が臥牛に似ているので「牛伏」とよばれたのであろう。牛伏山は東西二峰から成り、西峰は金毘羅山とよばれ、東峰は一郷山という。永い歴史の中でさまざまな事件が、この地をめぐって起きときた、特にこの一郷山にかかわる事件がある、永享十年関東管領上杉憲実は、鎌倉公方足利持氏と争い鎌倉を退き平井城(藤岡市西平井)に拠った。その頃平井城西方の守りとして新堀城「多比良城」と共に築城され一郷山城は山頂にあることから、のろし台としての任務が主なものであった。 永録六年(1563)二月西上上州侵略を図る武田信玄は平井城(管領府)攻略の緒戦として、一郷山城を攻めた。防戦のため山頂から落とした大石は、真下の見銘寺を押潰し火災となり、城は全焼将兵は全滅、婦女子は急崖に身を投げ落城した、ついで新堀城も攻略された。



  長井坂城跡「利根郡昭和村永井、高速道路沼田より赤城高原サービスエリアを過ぎて永井橋の先の長井トンネルの上に」


トンネルの上に長井坂城跡があります、本丸跡、一の丸跡、二の丸跡、三の丸跡、規模もかなり大きく畑と雑木林に成っている、それぞれの跡は、平らに成っていて南側は、空掘りが何重にか掘られていた、西側は絶壁で登り、降り、不可能で、はるか下の方に利根川がながれている、北側も急な斜面で登り降り難しい、東側に道があったのか、今は小型の車が行けるだが狭い道です、城跡は畑に成っていて、地面にその面影があった、この城は、北条氏が沼田城攻略のため築いたのか、ここに猪俣がいたのか、沼田城が北条氏の支配になると城代に成る。


長井坂城跡

群馬県指定史跡

  平成11年2月20日に写真撮りに行って来ました。
この城は、勢多、利根の群界で西は利根川の断崖、北は昭和村永井の深い谷東南は赤城原野に続いて沼田街道「長井坂」の要所にある 極めて要害堅固の地に築かれた、戦国時代の代表的な崖端城で永録年間1558〜1570年の築城と考えられる。

  永録三年上杉謙信が関東出陣の際、この城で沼田顕泰を降した。天正10年 北條氏邦が大挙北上して真田昌幸を撤退させたあと、 北條方の白井長尾氏が緊急補強の工事を実施した。 そこで天正18年まで北條軍が沼田城攻略の拠点とした境目城で遺構は北條氏が 慣用した築城方式といわれる。

桃瀬の水牢の跡

   水牢の跡 「中之条町、沼田より中山峠を越えて行き中之条町の市街地より1000m程手前、右側の200m、沢を渡りの杉の木の所、六畳程の池のあとが有り説明板が立てて有った。」

  水牢は、始め岩櫃城主が年貢の取りたてで、年貢を収めない百姓を一家皆、子どもも首まで水に入れた、死人がでた、後に沼田城主が真田に成ると中之条も真田の勢力圏になったのか、真田が年貢を収めない百姓に、水牢を使用した、とあった。

  説明板より
  水牢は人を水の中に入れる水責めの一種おもに年貢の取りたてに使われたといわれる。 水牢跡は近世の沼田藩の中で吾妻東部だけに残されている遺跡であり、八ヶ所ある中でこの跡がもっともよく原型を残している。記録には、12m四方に粗朶をゆい、木戸を設け、周囲は石垣で、女は水を70cm位にし、子供のある者は背負わせ単衣にさせ五人ぐらいを袖に縄を通してつなぎ入れたといわれる。男は首のつかるまで入れたといい、体温低下により死んだ者もいたといわれる。この悲惨な姿を見て、人々にすがり年貢を納めたのだといわれている。吾妻東部にしか見られないものなので中世におれる岩櫃城主斉藤越前守(岩下衆)が使ったものと推定され、それを近世になり真田伊賀守も使っただろうと考えられている数少ない遺跡で貴重なものである。

中之条町教育委員会

中山城跡


  この城は吾妻郡高山村、国道145号線の道脇に小高い平の山がある、これが中山城で杉林に成っていた。今より約750年前、建保2年2月武蔵児玉党の将阿佐美実高の築城したもので代々中山氏と称し、17代約380年城主として、この地を治めた。天正10年城主中山勘解由は沼田勢と共に小田原の北条氏白井の長尾勢と戦って戦死し、同年廃城となる。城は東西126m、南北125m深さ9mの土濠をめぐらし、本丸、二の丸、三の丸、南曲輪、北曲輪を備えた壮大な城であった。城主中山安芸守、娘が鈴木主水の妻。

国指定史跡・箕輪城跡


  箕輪城は、榛名山東麓のなだらかな傾斜地が利根川にむかって広がっている山寄りのところにあり、榛名白川の流れによる河岸段丘の複雑な地形を巧みに取り入れた城である。
箕輪城は、明応、永正年間 1492〜1521、長野尚業(ひさのり)が築城して、子憲業(のりなり)孫業政により強化された。
戦国時代に城主長野業政によって、西上野の武士団を統合した勢力をつくりあげて、西方からの武田信玄と戦っている、業政の死によって、在地領主たちの結合がくずれ、武田の猛攻によって永録6年(1566)落城した。長野氏滅亡のあと、武田氏が箕輪城を支配したが、武田勝頼は、内藤昌月を城主として置いている。天正10年(1582)、武田勝頼が天目山において滅亡した後は、織田信長の家臣、滝川一益が上野国に入国して来た。しかし、本能寺の変、神流川合戦によって滅ぼされた滝川一益は、上野から伊勢に退いた。天正12年(1584)の春、北条氏に対抗していた厩橋城の北条高広が降伏し、北条氏直が厩橋城に入城している。 これより後、上野国は、北毛の真田氏の支配下をのぞくいて、次第に北条氏の領下に統合されていった。 箕輪城については、北条氏の武将が在城しており、箕輪・倉賀野・箕輪・沼田など六城は、北条氏邦の支配下になっており、氏邦の家臣が城代であった。   天正18年(1590)7月、小田原は落城し、後北条氏が滅亡すると、徳川家康が関東八ヶ国を領して江戸に入った。箕輪城には、家康の信任の厚い井伊直政が入り、江戸北方の要としている。箕輪城は12万石の城下町となったが、中山道が五街道の一つとして重要性をもってくると、交通上の要地である和田の地に移転した。これが高崎城である。慶長3年(1598)箕輪から高崎城に引き移り箕輪城は廃城となった。

資料箕輪町教育委員会

白井城跡


  前書き・「戦が続く上野国」京都の室町に幕府を開いた足利尊氏は、正平4年(1349年)に、子の基氏を関東管領として鎌倉に置き、一族の上杉氏をその執事として、東国を治めさせた。「後に、関東管領は関東公方とよばれるようになり、上杉氏が管領となりました。」このころから、上野国の守護は、代々、上杉氏がなりましたが、上杉氏は、鎌倉にいたので、そのかわりに、白井(北群馬郡)付近に力を持っていた家来の長尾氏に治めさせていた。しかし、15世紀後半になると、長尾氏の力が、上杉氏より強くなり、文明2年(1470)には、主人である上杉氏にそむくまでになりました。かっては、上野国の守護として、また関東管領として、東国に大きな力をもっていた上杉氏でしたが、だんだん力がおとろえ、北条氏(小田原の北条氏)、武田氏、という新しい力をのばしてきた武士達にも戦いで敗れた、上杉氏は、その頃、上野国の平井城(多野郡)にいたのですが、ついに、そこにいる事ができず、長尾氏をたよって、越後国(新潟県)に逃げていった。越後国にのがれた上杉氏は、そこで、「管領」という役目と「上杉」という家名を、長尾景虎にゆずる。後の上杉謙信その人です。

  この上杉憲実の家宰(家老)が長尾景仲で、白井城主でした、長尾景仲(昌賢と号)は、付近の国人たちを集め、関東各地で奮戦します。文明5年(1473)この家宰職の争いから景仲の孫景春は、足利成氏(持氏の子、古河公方という)に従い、上杉氏にそむきます。これにより、戦乱は上野に及ぶときにこの地域にも及ぶことになる。景春の死(1514)により乱「景春の乱という」はおさまったかにみえましたが、伊豆に興った北条氏が北進をはじめたため、戦乱は拡大し、混戦状態になりました。天文21年(1552)北条氏康と戦って敗れた上杉憲政は平井城をすてて越後の上杉謙信のところへにげた。これにより、永録3年(1560)上杉謙信の関東進出が始まります。

  白井城は、利根川と吾妻川の合流点に北から突出した台地の先端に築かれ、自然の要害を利用した梯郭式の平城である。本丸を始め、北に二の丸、三の丸、北曲輪、総曲輪、北の遠構と、東南外側を守るため後に南曲輪、新曲輪が附加され、東の遠構が構築されていて東西850m、南北1050mの大城郭である。「長尾正統系図」{雙林寺蔵}には、鎌倉時代の康元元年(1256)に、上野国守護上杉氏の家臣長尾景煕が白井の庄を与えられたころから、築城が始められたと伝えられている。世にいわれる「白井長尾氏」である。関東管領上杉憲実の信任の厚かった長尾景仲(昌賢)が出ることにより、本格的に築城(1430〜50)され、景信、景春、憲景、政景、と受け継がれた。その間、越後長尾氏(上杉氏)−甲斐の武田氏−織田の家臣滝川氏−小田原の北条氏の配下となって活躍した。長尾氏は天正18年(1590)に豊臣秀吉の小田原攻めの際、前田利家に攻略され滅亡した。その後を徳川家康の譜代本多広孝、康重親子が二万石封ぜられ、康重の岡崎移封後、松平康長、井伊直孝、西尾忠永、本多紀貞と続き寛永元年(1624)紀貞卒去と共に廃城となる。

資料子持村教育委員会

山上城跡

  【 指 定 】昭和23年11月26日 ● 県指定史跡   【 所在地 】新里村大字山上282

  

1999.6.30.物見代の所の松食い虫の為枯れた、松の駆除にいってきた。

  山上城は田原藤太といわれた藤原秀郷の流れをくむ、足利成行から二代目五郎高綱によって築城されたといわれます。高綱の子、高光は源頼朝に仕えました。 その子孫も代々この地域を領し、上杉氏が関東管領の頃は東上州のなかでも、特に重きをなしたと伝えられます。しかし、北条・武田・上杉など の群雄が割拠した、戦国時代動乱のなかで、やがて、16世紀終末ころに廃城になりました。
  城の構造は、並郭構造といわれるように、北から南へ笹郭・北郭・本丸・二の丸・三の丸・南郭と一直線に並んでいます。なお、南郭には物見台の跡が残っています。南北は650m、東西は220mの細長い形をしており、平坦な郭構造ではなく、 高い郭を持つ事から丘城ともいわれています。そして、周囲は自然の要害である蕨沢川と谷によって守られていたのです。城下町の名残と して、元町・鍛治町などの地名が残っています。

明徳寺城跡

  明徳寺城跡は月夜の町後閑の月夜の電子の近くの山上にその形跡がありました。上って行く道は、狭く軽自動車が行き来している様です、城跡は梅林や他の農作物が 作られていました。今は農家の人の持ち物か、城の地形「平らにしたり柵代わりの土手、段々も」作物が作られていて城の規模が良く分からなかった。登り口近くにはその昔は明徳寺が有ったのかそれらしい民家や県指定重要文化財の彫刻の 仏像がある、見学はしなかったが、

木造聖観音坐像一躯

  所在地  利根郡月夜野町大字後閑1,478

  本像は一本造り、彫眼であり、前頭部に化仏が一躯おかれている。材質は広葉樹が用いられている。
像高72センチ、肩幅25センチ、膝幅51.5センチと、やゝ小型なものであるが、古様に則った仏像である。
  製作年代については銘文もなく明らかでないが現在のところ、鎌倉時代末期から室町時代 初期にかけてのものであろうと推定されている。     寺の縁起「補陀山明徳寺記」(天明二年)によれば嶽林寺(月夜野町)十五世住職大斧道公 が江戸で求めてきたものであることが記されている。
昭和57年3月

月夜野町教育委員会

樋[火]塚古墳

  ●所在地    吾妻郡中之条町大字平字菅田1057ノ1
  ●石  室    奥行 約5.5m・  幅(奥)約1.2m・  高さ(奥)約1.6m
  ●概  要
  名久田川左岸の河岸段丘にある円墳である。西北(嵩山の方向)に面して石室が開口している、横穴式古墳で、六世紀前半のものと 推定している。石室は40×20から70×50(単位センチメートル)ぐらいの石による乱石積で石と石 のすきまには小石をはさんでいる。奥は幅1.2mで高さ0.65、0.40、0.55mの三つの大きい石で積んである。袖無型で天井石は五まい、なお開口部近く に「まぐさ石」がある。
高橋景作日記(高橋忠夫家蔵)
嘉永七年四月十九日、平村火塚をほる。20日、火塚より丈二寸計の不動像出る。古代の害甲の八まん座二つ、刀のくされたる様の物、 八・九寸計の物二本、其の外鉄物色々出たりーと記され、五月一日に不動尊の供養をしたようにかかれている。
現在その出土品の所在は不祥である。

群馬県教育委員会・中之条町教育委員会


尻 高 城 跡

○ 所在地は吾妻郡高山村尻高

尻高城は古屋の要害城と並木の里城とからなっている。築城は応永八年の三月、白井主城伊玄入道三男、藤原重儀によって築かれ、翌九年十二月に完成した。 重儀は尻高左馬頭と号し尻高、大塚、平、赤坂、辺まで領有し、威勢さかんであった。永録二年、三河守重治の時、武田信玄によって、子の左京亮景家と共に戦死した。 景家の子、左馬介義隆は、上杉氏に属し、天正九年割腹し、天正九年正月八日尻高城主三河守は滅亡した。


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