平 井 城。

関東管領平井城主上杉憲實

この城の位置は、牛伏山の城から南の目前に見える所にあり只今「町おこし」で、城の再建をしています、藤岡繁華街から下日野に行く途中の山間に入る手前の所です、この付近にはゴルフ場が沢山ありますが、道は狭くその昔華やかだった所ろとは見えない程昔しのはなしだ。

群馬県藤岡市現在の西平井に(永亨10年1438年から天文20年1551年)関東管領上杉氏の居城があった。長年にわたり関東越後を統治し、隆盛期には8万もの人々は鮎川沿いに城下町を形成、鎌倉を凌ぐ政治経済の隆盛を誇った。周辺各地に支城を配した平井城は、本丸、3の丸(武家屋敷)惣郭、西側に山城(金山城)を配し、川には3段の堰止を設けて人口湖をつくり防備の要とした。戦火に明け暮れる戦国期にありながら京都文化の影響下、城下町はきらびやかに彩られ、中世の壮大な都として繁栄をほしいままにした。





埋もれた中世群馬の古城・関東管領上杉の居城 平井城とその要害城平井金山城


平井は、十五世紀後半から十六世紀前半の百年間、山の内上杉氏の本拠であり、関東管領府の所在地であった。 京都室町の足利幕府は、関八州の特殊事情を考え、鎌倉府を設けて統治させ、足利尊氏の子基氏の子孫を代々その首長に任じ、 人々はこれを鎌倉の公方、或いは関東公方と呼んだ。 ところが関東公方は、とかく幕府の支配から逸脱する所行が多くなったので、関東管領を別途に任命して、それを制御しよう としたのである。従って、関東の公方と管領の間には軋轢を生む必然性があった。 永享十年(1438)、鎌倉の公方足利持氏と管領上杉憲實との関係は決裂し、憲實は平井に難を避けた。この時平井城が創築 され、30年程後、管領上杉顕定の手によって大成したのである。 幕府は持氏討伐の錦旗を憲實に渡し、上杉氏はこれを平井の牙城に押し立てて名分を正し、戦いを坂東の曠野に展開した。 持氏は滅びたにもかかわらず時局は変転して定まらず、文明10年(1478)、公方茂氏と管領顕定との間に和議が成立、 幕府も承認して一旦は動乱の終結を見たが、いくばくもなく山の内上杉、扇ヶ谷上杉の内訌が起り、虚に乗じた北条氏の跳梁を 許してしまった。 天文20年(1551)、北条との抗争に敗れた上杉憲政は、遂に平井城を放棄して越後にのがれ、やがて平井の 名城も蔦葛(ちょうかつ)のはびこるに委せた廃虚と化したのである。 春風秋雨435年、城は今尚、鮎川断崖上に本丸をめぐる中心部の遺影を止め、僅かに残る塁上壕底に、往古の誇りを伝えて松籟 の飄飄(ひょうひょう)と鳴り渡るのを聞く。 本丸一隅の上杉氏一族の碑を前にしてたたずめば、南に金山の要害城の間近く迫るのを見る。金山は全山手をつくして築城され、 近年の発掘調査に、表門跡をはじめ櫓門跡と塀の基礎と思われる石組みが検出され、それらの前面20メートル四方の馬屯の平坦面も 認められた。それらは15世紀山城の片影をまざまざと現出し、かくの如く平井城は、それを彩る歴史といい、城址に伏在する 貴重な遺構といい、稀有の史跡として称讃されるべき至宝なのである。 執筆者 県文化財審議会委員 山崎 一 氏 より


★ 埋もれた中世群馬の古城・関東管領上杉の居城 ★ 平井城とその要害城平井金山城 上杉、要衝の地平井に築城 関東管領上杉憲実は、信州の小笠原政康を討とする鎌倉公方足利持氏を諌めて激怒をかい、身の危険を感じて上州平井城に避け た。 永享十年(1438)8月14日のことであった。 室町幕府は、関東の特殊性に応じ、足利直義の嗣子基氏(尊氏次男)を祖とする関東公方(鎌倉公方ともいう。)を置き、室町 幕府以来のしきたりを尊重して分知させていた。基氏の職分は関東管領だったのである。基氏の子、氏満・孫の満兼と継ぐうち、 年が経つに従い幕府の統制から逸脱する傾向があり、その対策として、別に上杉氏が関東管領を命じられ、基氏の後継者は関東 公方と呼ばれる様に成った。 これにより、公方は幕府の権威を代行し、管領はその目付役となって事実上の権力を掌握し、鎌倉府の態勢を成立したのだが、 公方、管領の対立は必然の帰結だったという事ができよう。

関東管領山内上杉系図 藤原鎌足公十九代勧修寺家「上杉氏は、藤原氏の出である。丹波国上椙荘を領してから 上杉を名乗る。」

藤原 鎌足公・・・藤原鎌足公十九代勧修寺系 ___ 藤原 重房 @ 初代 重房 鎌倉 「藤原」 A 二代 頼重 鎌倉 「藤原」 B 三代 憲房 鎌倉 「藤原」 C 四代 憲顕 鎌倉 「藤原」 D 五代 憲方 鎌倉 「関東管領山之内上杉家」 初代 E 六代 憲定 鎌倉 「関東管領山之内上杉家」 二代 F 七代 憲基 鎌倉 「関東管領山之内上杉家」 三代 G 八代 憲実 平井 「関東管領山之内上杉家」 四代 「平井初代」越後上杉房方 三男、鎌倉山内憲基 嗣子 H 九代 憲忠 平井 「関東管領山之内上杉家」 五代 「平井二代」 I 十代 房顕 平井 「関東管領山之内上杉家」 六代 「平井三代」上杉憲実 二男、五十子(本庄市)陣没 J 十一代 顕定 平井 「関東管領山之内上杉家」 七代 「平井四代」越後上杉房定 二男、平井上杉憲実 孫娘婿 顕実 鉢形城へ 「平井五代」 古河公方足利政氏の弟 上杉顕定 嗣子 K 十二代 憲房 平井 「関東管領山之内上杉家」 八代 「平井六代」上杉憲実 三男 周清の嫡子(憲実 の孫) 憲寛 宮原潜居 「平井七代」 足利高基 二男 平井上杉憲房 嗣子 L 十三代 憲政 平井 「関東管領山之内上杉家」 九代 「平井八代」平井上杉憲房 嫡子 M 十四代 輝虎 厩橋駐屯 越後春日山城主の長尾景虎「上杉謙信」「平井廃城」越後長尾為景 二男(景虎)上杉憲政 嗣子 上杉氏の三国・(所領)越後(新潟)山内上杉房定、上野(群馬)山内上杉 顕定 、武蔵(埼玉)扇ヶ谷上杉定正、 相模(神奈川)山内上杉 顕定 山の内上杉とは。

初めに現在の神奈川県鎌倉市山の内の地名(JR 東京・横須賀線北鎌倉駅付近)に住んで居たので、平井に移った後も上杉姓の上に山の内を冠して呼称と したものである。 扇ヶ谷上杉は現在の鎌倉市扇ヶ谷に居住した。 犬懸上杉は現在の鎌倉市犬懸に居住した。 @ 長男 扇ヶ谷 A 次男 山の内 B 三男 犬懸に分家して居住。京都将軍に仕えた。 「 注 」 鎌倉の明月院に鎌倉上杉氏の祖上杉重房公の木像が安置されている。 資料は平井城の主要歴史概説より。



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