と問い合わせる時期になりました。元気に家のとうもろこしを食べいただけるといいナーと思います。




談志師匠のテレビ出演
 2007/2/28

NHKハイビジョン談志師匠のドキュメンタリー番組再放送を録画して見る。
夜、一言一句聞き逃すまいと1時間50分釘付け。
全てをさらけ出している談志師匠に驚き。
一口には言えませんが何か寂しくなったり、勇気づけられたり。
「立川談志・71歳の反逆児」忍び寄る老いと病、だが枯れるのはイヤだ!芸への執念▽落語がすべて」
というタイトルやサブタイトルがつき9章からできていた。爆笑問題が何回か出たし、立川談志論を志の輔や甲本ヒロヲ、福田和也、太田光、中村勘三郎などいろんな人が語っていた。
インシュリンを打つところも出てきたし、新潟の田圃で稲刈り、九州のお寺での落語会でのアクシデント、立川流の二ツ目昇進審査風景など貴重な映像が見られた。「苦悩する師匠」「娘さんとの親子の会話」死とか老いを語る場面があり全体に重い感じがしたけれど、なんと言っても最後の方に笑顔があったこれは素敵でした。

落語に対する真摯な姿勢を「芝浜」を通じて描いていた。去年の12月息子と聴きに行った三鷹の落語会の様子が会心のできだったようで、そこに居合わせたものとして嬉しかった。心の栄養分たっぷり。



談志師匠の芝浜
 2007/2/1

12月書きたいと思いつつ、なかなかかけなかった。ミクシィの日記を転載する。
チケットの手配は立川流Cコースの方に取っていただき。当日は談志師匠ファンの若いしと話すこともできた落語を聴く以外にも収穫。このときの師匠はなかなか高座に現れなかった。

2006/12/2、東京三鷹市で談志師匠の『芝浜』を聴く。
また新しい『芝浜』と理解する。素晴らしいできでありました。

夫婦とは…なんだ。家の妻、女房、かみさん、愚妻、のりこの事をどう思っているのだと自分自身に問うことになった。

自慢の、20年前結婚式の第一部で『芝浜』を演ってもらったことを思い出した。そういえばあのときは泣いていた人が何人もいた。
感動のあまり、ついブログにも書いてしまいました。
http://ringotei.seesaa.net/archives/20061203.html



もろこしのチラシ
 
2006/10/7

ここ一週間のうちに、談志師匠から二通の手紙をもらう。
一通は葉書で、もう一通は封書。
感動的なことが一つ。
最初の葉書は、今年最後のとうもろこしを送ったお礼でした。十二行のうち半分がオレの仕事のもろこしのこと。あと半分は師匠の精神的な近況だった。

最初の葉書で、関西の方から送られてきたもろこしのパンフを「猪にやられてダメと聞き、そのパンフは捨てた。おっとあるかも知れない、出てきたらあとで送る」とあった。
そして一昨日届いた手紙に、何枚かの千社札と共にとうもろこしのパンフレットが入っていた。

またとうもろこしは師匠の周辺の方々にも食べさせたとあり、「旨え」と言ってくださったらしい。
その方々のお名前もあった。続けて書くとこうなる。藤光平三貞房之敦。
この手紙はぐんまの百姓Shishida・Gonsukeを励ます手紙だったのです。


小説新潮10月号 
2006/9/25

談志一代記その4を沼田の本屋で立ち読みをする。おかみさんの話で面白かった。あまりおかみさんの話は聞いたことがなかった。


小説新潮8月号 
2006/8/21

談志一代記その3を読む。最初からの2頁が素晴らしい。
ここだけ読んだだけで十分である。さあ図書館へ行こう。



談志師匠休演 
2006/6/23

6月23日、談志師匠は高崎葡萄屋寄席を耳の具合が良くないと言うことで休演された。
これからは遠くであろうと無かろうと、できる限り追いかけていかないと師匠の落語を生で聞けなくなる事だってあり得る。



小説現代最新号(4月) 
2006/3/6

昨日小説現代の談志師匠の文章を文真堂で立ち読みした。
名画の案内だった。ビリー・ワイルダーの「情婦」という作品を推薦していた。
以前は映画評を週間誌に連載していたので、大まかな好みは知っているつもりだ。
今日はその再確認をしてきた。
原作の「検察側の証人」は俳優座岩崎加根子の芝居で見たことがあったが、映画も一度見なければならない。



長野県南牧村
 2006/2/26

南牧村図書館には、談志師匠の本が2冊ある。
「新釈・落語噺」「文句と御託」です。
ちなみに井上ひさしの本は24冊あった。

別にそれがどうこうしたという事ではない。



師匠来訪 2005/11/30
 先日談志師匠が林檎亭に立ち寄られました。残念ながら留守のためあえませんでした。
置き手紙と千社札がたくさん置いてありました。



文学界2005年9月号
2005/9/1

 文春の文学界が何部出ているか知らないけれど、すぐ本屋に行かないとなかなか買えない。
 発売後数日して、沼田に買いにいったらどこにもない。渋川まで足を伸ばし5軒目でやっと買えた。
 なぜ文学界かと言うと、「落語特集」ということで談志師匠と澤田隆治が対談している本だからだ。14ページほどの「家元文学を語る」の中で一番心に残っている文章は師匠の発言です。
 「口はばったいけれど、俺の落語はますますよくなるっていう自信もあるんですよ。どんどん、まだできる。……」
 どうですか、談志師匠の落語聴きたくなりませんか。この秋国立演芸場でやる独演会が注目ですね。もちろん切符がとれないと思う。



「カミナリを聴きに行きたい」 
2005/8/20
 
18日午後、談志師匠から電話がありました。年に一度か二度のとても珍しいことでした。
 「カミナリを調べているんだけど、そちらの今年のカミナリはどうだい。カミナリを聴きに行きたいんだ」というような内容でした。凄いなー、カミナリを聴きに来るというのですから。
 もし8月に群馬で師匠を見かけたら、カミナリを聴きに来たに違いない…。


DVD・BOOK寄席談志独り占め 2005/4/2(と)
 
17インチのパソコンで師匠の「居残り佐平次」を聴く。画面から40〜50センチの近距離でみる。写りも良い、内容的にお座敷でお客は一人という設定なのでなおさら臨場感が増す。
私がネットで買った本には、
「あの頃あの顔懐かしく・星野十季男君江」というサインがありました。


このDVDをお買い求めの場合はこちらの談志師匠のサイトから。サインももらえます。












お笑い芸人と落語家の評価
 2005/2/14(と)
 
こんな事を性懲りもなく考えています。
 手作りデザイン講座メニューの作り方の課題です。これを提出し添削助言を受けます。相変わらずゴチャゴチャしている出来映えです。
こちらからご覧下さい。



2005年談志師匠との関わり初め
2005/1/10(と)
談志師匠の手拭い、と小説現代新年号
 小説現代新年号を買ってきた「談志師匠と伊集院静氏の対談・小説家はアブない」をこれから読む。
 年賀の挨拶に今年の干支の手拭いを頂く。
 11日は高崎葡萄屋寄席を聞きに行く。
 葡萄屋寄席の師匠のネタ帳。
 昭和55年より。
 「粗忽長屋」「品川心中」「三軒長屋」「明烏」「おめでとう中曽根康弘」「冨久」「漫談」「粗忽長屋」「黄金餅」「明烏」「風呂敷」「芝浜」「浮世床」「紺屋高尾」「つるつる」 「権助提灯」。
 葡萄屋寄席発足当時は、小さん、圓楽、文治、圓蔵の各師匠連との二人会が時々あった。
 果たして11日の演題は…。



11代目金原亭馬生師匠
 2004/9/5 (と)


 私の結婚式の司会は、落語家金原亭馬治さんに頼みました。現在の金原亭馬生師匠です。
 私の自慢の一つに、金原亭馬生師匠は友達だと威張って言えることです。

 今日珍しいレッテルの飲み物が馬生師匠より届きましたので紹介します。
 高知県安芸郡馬路村農協で作られた、蜂蜜と柚子の清涼飲料水です。
すっきりして
美味かったです。


 金原亭馬生師匠は、上野鈴本演芸場の9月中席で先代の追善公演のトリを勤めます。日替わりで十八番を演ずるようです。

 話は変わりますが、今度林家こぶ平さんが、正蔵を襲名するそうですが、口上に、橘家圓蔵、金原亭馬生、桂文楽などが揃うとすごいて゛すね。



 講談社『オブラ』7月号長編インタビュー怪傑・立川談志 
2004/6/9(と)

 
この雑誌は「アージュ・ドール(黄金の年齢)を迎えた旬の男達へ」向けた雑誌のようです。結構な雑誌オブラ生活をしている人、つまり中流以上の人を対象にしているのだろう。この雑誌に我らが談志師匠が登場した。インタビューは吉川潮、写真加藤孝とある。

 記事は12ページにわたって、多くの写真と師匠の言葉で構成されている。ファンにとってはたまらない情報である。記事のトップ、見開き2ページにわたって大きな写真が出ているのだが、この写真の机の上に注目したい。とうもろこしがある。ま、それがどうと言うこともないのですが…。



























 


 談志師匠の手紙
 2004/3/25(と)

 私が今までで一番多く手紙を頂いた人は立川談志師匠です。交際していた女の人からのものも結構有りましたが、そう何年も続かない。談志師匠とは38年間続いているのですから。たいていは私からの返信ですが、時たま師匠から頂くことがあります。昨日も来ました。
 ライカギャラリ−(銀座松屋向)で開かれている師匠の写真展です。何を演じているところかわかる人は通、特上の通です。私も解らない。「黄金餅」かなー。だれかわかる方教えて下さい。



紅白歌合戦の談志師匠 2004/1/4(と)
 大晦日、談志師匠がテツ&トモの応援で紅白に出た。「なぜ私がテツ&トモの応援に来たかというと…♪何でだろう何でだろう」と歌って手を交差させる仕草をするものだった。紅白は見ないがこの場面だけを、家族に教わってみた。2日のクイズミリオネアにも出たらしい。
 師匠が初席の賑やかな寄席のトリをとってくれればお客さんは喜ぶだろうナー。東宝か松竹がまた寄席を始めれば出てくれるかナーと思う。
 昔、いつだったかなー、30年近く前のこと初席の寄席の掛け持ちのあとをついて廻ったことがあった。縞の着物にコートを着て、電車に乗って移動した。電車の中では結構混んでいて、師匠は吊革に掴まりながらはネタのメモをとっていた。暑くなってコートをあずけられたとき、コートが長く先がアスファルトにつきそうになり慌てて高く持ちあげたのを覚えている。そして浅草演芸ホールの近くの小さな食堂でたまご雑煮をご馳走になった。


談志師匠の新刊 2003/12/30(と)
 談志師匠の最新本『談志が死んだ・立川流は誰が継ぐ』講談社刊を買った。
 表紙のデザインは良いけど色が良くないと思う。私のイメージと違う…。
 内容はすごい、お弟子さんの談志論が八割。そして師匠がお弟子さんを語るが少しだけ、このコーナーの書き出しもすごいぞー。
 師匠の落語家生活50年、立川流20年そして私、星野十季男の談志師匠との関わりの38年がこの本の内と外に埋まっている。つまり談志師匠のファンの人は、この本を読むと自分の落語好き、談志好きの人生がよみがえる名著?であります。

 この本をネットで買うと誰でもサインがして貰える。購入はこちらから

 

 


談志師匠5度目の来園  2003/10/23(と)
 昨日、談志師匠がうちのりんご園にお見えになりました。これで5度目だと思います。やはりだいぶ慣れてきたとはいえ緊張します。
 特筆すべき3つの事がありました。
 1 先日、片品芸能鑑賞会の例会に来られた志の輔さんのネタ「紺屋高尾」の話をしたら、その一節の高尾太夫のセリフを少し語ってくれました。最近の落語は花魁が現代語を話すようになったと言うような事を言われました。
 2 昔のりんご、国光や紅玉の話をしました。そして今実っている紅玉の木まで行ってもぎたてを味わっていただきました。拭いて丸ごとかじりついたのですがとても美味そうでしたし、声に出して「美味い!」と言ってくれました。私はもう酸っぱくて飛び上がりそうになるのに…。育成中の酸味の強い「花咲」も食べていただきましたが、紅玉がお気に入りのようでした。したがってジュースも紅玉だけで作りお出ししました。満足されたようでした。
 3 これはミニハーブ園の所にいたかみさんの話しですが、師匠はハーブ園のそばのコスモスに語りかけていたようです。

 今回写真はありません。私とかみさんの頭の中に撮ってあるだけです。


『地球も最後ナムアミダブツ』にリンクを張って貰う 2003/8/20(と)
 談志師匠からとうもろこしのお礼の手紙を貰いました。講談社の原稿用紙に5枚。中国のしんせんという新しい町の話が書いてありました。3万の町が3年で700万の人口になったらしく、カルチャーショック受けたと…。
 私が感動したのは…、師匠のホームページの【今日の家元・8月17日】にこう書いてリンクを張って下さったことです。「ここのとうもろこしは美味也、北海道なんてぶっ飛んじゃうよ」。そのあとに、もっと売りたきゃ相談にのるよと言って下さったのです。ほかにもとうもろこしは美味いのだから威張っていいとかいろいろありました。
 その談志師匠のサイトはここです。


立川談志世相講談 2003/8/4(と)
 WEB現代の立川談志世相講談は全部聞いている。週に1本ずつアップしているのだが7/29公開の「週刊誌と新聞」は傑作です。落語会や著作や講演会で発言していることですがこれが面白い。新聞の見方、週刊誌の見方がわかる。
 まだ見たこのない人は一度みて下さい。こちらから直行です。http://kodansha.cplaza.ne.jp/danshi/index.html。
 そろそろ談志師匠が梅田屋旅館に現れる頃かもしれない。片品においでになったときは、林檎亭まで歩いてきて、もぎたての完熟トマトを頬張って下さいと言ってはあります。


抜け雀 2002/12/18(と)

 片品村の梅田屋旅館には今年の初夏に書かれた、談志師匠が言われるところの「御託」がご本人の直筆で8枚の襖に書かれております。
 ほかの襖はお泊まりになってのお楽しみというところです。


立川流家元高座50周年記念独演会&パーティー詳細2 2002/11/17(と)

◎ 師匠の落語会にほんの少し遅れて到着しました。師匠が鼻をかんだりしているとき、素早く隣のお客さんに「時間丁度に始まりましたか」と聞きましたら頷いてくれました。そのお客さんはタートルネックのセーターにブレザー、カーボーイハット見たいのを被っておられました。1時間30分ほどの時間で二席の落語を一緒に聴きましたがほとんど笑いませんでした。声を出さないだけで、笑ってはいたかもしれませんが…。この方はあとでわかったのですが、学者で作家の西丸震哉氏でした。師匠の会にはどんなエライ人がいるかわからない。
西丸震哉PROFILE
にしまる・しんや 大正十二年東京生まれ。東京水産大学卒業。岩手県水産試験場勤務を経て,昭和二十二年農林省入省。日本の探検登山の草分け的存在。ニューギニア等,世界各地の秘境地区で探検・調査を行ない,食糧危機,文明破局論を唱えつづけた異色官僚。五十五年,国の食糧政策に疑問を抱き,食品総合研究所栄養化学研究室長を最後に自主退官。大学講師をつとめる他,環境問題や現代人の生き方をテーマに執筆活動をつづける。作曲,SF小説,油彩まで手がけるマルチ人間。著書に「山の博物誌」「食物の生態誌」「41歳寿命説」など多数。現在,食生態学研究所所長,日本熱帯医学協会顧問,日本山岳会評議員,日本旅行作家協会理事。大叔父は島崎藤村。

◎ パーティーで師匠の近くにいたり離れたりして世話をしている少年がいました。背広を着てネクタイはしているものの中学生くらいに見える少年です。談幸師匠によると、この人が一番新しいお弟子さんで、今年の8月に入門されたらしい。高座50周年のパンフには「山本風吉1984年12月24日生まれ」とある。まだ17歳これは若い、そして可愛い。最後のお弟子さんになるかも知れない。弟子を育てることの集大成、師匠も力を入れて指導するのではと思いました。


◎ 50周年を記念して発売されたプレミアム・ベストCDアルバムを買った。徐々に聴いていくのだがまず軽い噺からと思って聴いた「やかん」「金玉医者」は面白かった。これはすごい。「やかん」は今年の5月函館で公演された録音だがお客とのやりとりがすごかった。噺に入ってからも、「努力てなぁ何です」「努力とは馬鹿に恵えた夢」「じゃあ学問てなぁ」「貧乏人の暇つぶし」こういうのがぽんぽん出てくる。林檎亭々主は唸りました。また「金玉医者」は「志ん朝・圓歌二人会」の志ん朝の代演の録音ですがこれもすごかった。ネタ帳を見ただけではわからない。代演と云うのはこういうふうに演ずるというお手本ではないかと思う。志ん朝を聴こうとチケットを手配したが、病に伏した為の談志師匠の代演にファンも納得したのではと思いました。
 当日の独演会での2席目、賑やかな「疝気の虫」もめちゃくちゃ面白かったと強調しておきます。

 
上の写真は一部当日頂いた記念品です。
 気が向いたらまた続きを書きます。
 この写真は次男に撮らせたのだがなんて思ったかなー。



立川流家元高座50周年記念独演会&パーティーの詳細 2002/11/7(と)

◎ 橘家圓蔵師匠に話しかけた「談志師匠のホームページで今度圓蔵師匠とやりたいというようなことが書いてありましたが具体的になりましたか」「いやいやとても、私らとは別格ですから」と首をふりながら返事をくれました。ステージでは「兄さんのおかげで…」というのを受けて談志師匠は「自分の実力だ」と言っておられました。

◎ パーティーでは、師匠がメインで進行していました。自ら指名して、ゲストを舞台に招き入れました。サブの司会はお弟子さんの談四楼師匠でした。家のもろこしの宣伝をしていただいている談四楼師匠とは言葉を交わしませんでしたが奥様と少し話をしました。

◎ パーティーのお土産には、下の写真でしている師匠のバンダナが2本入っておりました。

◎ ゲストの和田アキ子はテレビよりきれいだった。

◎ ビデオレターが放映されたが、石原慎太郎、ビートたけし、森繁久弥、爆笑問題と豪華だった。その方方のコメントに、師匠が「違う」とか「本当だ」突っ込みを入れて笑わせてくれました。立食のパーティーのため、師匠がどこにいるかはよくわかりません。会場をぐるぐる回っておられました。

◎ 落語会に遅れそうだったので、新宿駅南口からタクシーに乗った。京王プラザホテルまで660円だったかな…。私が30〜40分働いた時間給と同じだ。まだまだタクシーに乗る身分では無い。帰りはもちろん西口まで歩く。



立川流家元高座50周年記念独演会&パーティー当日 2002/11/3(と)

 今日は久しぶりに東京にでた。1時まで仕事をしてこの会に駆けつけた。落語2席を西丸震哉の隣で聴きました。「黄金餅」と「疝気の虫」です。酔っぱらいの貧乏和尚はすごかったなー。パーティーでお会いして「いつも、いつも、本当にありがとう」と握手をしながら声をかけていただきました。林檎亭のりんごを旅先まで持っていくと聞いていたので、お祝いに今日の昼に届くよう「ぐんま名月」と「新世界」など4種のりんごを送っておいたのです。 大勢の有名人、芸能人が来ておりましたが、農家はわたしだけかも知れない。この会のことはまた書きます。

 下の写真は一門のお弟子さんと談志師匠。
立川流一門



立川流家元高座50周年記念独演会&パーティー 2002/10/12(と)

 談志師匠は、落語会に入って50年経つそうです。50年という強い印象はないと高座で言っておりました。
 この度11月3日に50周年記念の独演会とお祝いのパーティーを開くそうです。案内を頂いたので、忙しい時期ではありますが大喜びで出かけます。その案内の文章を紹介して今日の「談志師匠とのこと」といたします。

 『五十周年だとサ
 つまり何だ、落語家なって五十年経ったってこった。
 別段ヘソナメタでどうという感慨も無い。
 ま、その間(あいだ)何のかんのと屁理屈こいて生きてきたから、敵も味方も数多い。
 で、味方?だけ集めてチョイ落語(しゃべり)、グィ飲み、ということであります。
 立川談志充分に生きた。
 ゛最後のお目通り゛かも知れない。いや、ホント…。
 ザッツ・ア・プレンティー、
 虎が鳴いたら大変だァ…。

 立川流家元
 立川談志 』




柳家小さんのこと 2002/9/23(と)
 小さんが5月になくなり、その思い出を書こうとずっと思ってました。私は小さんの落語を生で何度も聴いたわけではない。あの時とあの時と…と数えられるくらいしか聴いていない。もう30年以上前のことです。隣村の老神温泉の旅館の小さな広間で、50人くらいのお客さんと『二人旅』を聴いたことがあります。金融関係のお得意さんの集まりの余興のようでした。中小企業の社長さんが多くいました。わたしが落語好きということで、関係者の友達が声をかけてくれて特別に聴かせてもらいました。いつもの黒紋付き、マイクの用意がありましたが、感度が悪いので「マイクなんかいらねぇー」と言ってぼそぼそと話し始めました。間近で聴くというのも贅沢なモノで、床屋に行ったばかりの頭や、顔がてかてかと輝いていたのを思い出します。最初ぼそぼそと話し始めると、これで名人かなぁーと思います。ダンダン乗って来て声が大きくなったりして、話が進んでくると、ぐいっと引きこまれてしまうのがいつもの小さんを聴くときの私のパターンです。その時もそんな感じの小さんでした。
 高崎の葡萄屋寄席、昭和57年の橘家圓蔵襲名披露の会のことです。場所は高崎ステェーションホテル、今は名前が変わっているホテルですが、ここでマイクの調子が悪く、声がと切れたり入ったりと、誠に聞きづらいことになりました。『千振る』を演じていたのですが、怒ってやめてしまい、百面相をやりました。千早を最後まで聴きたかったのにとホテルを恨んだのと、テレビで一度見ただけの余興の貴重な芸、百面相を見られたのでこれもよかったという複雑な気持ちでした。これまた20年以上前の話です。

 談志師匠の本の付録に、小さん師匠との架空対談のCDがあります。これをまた聴いてみようかと思っている今年の秋です。
 
 

師匠の電話 2002/8/9 (と)
 師匠からうちへ何度か電話がかかってきたことがあります。私は不在でほとんどかみさんが受けていました。今日、暑さと前日のりんご研究会の現地視察と交流会のため疲れがどっとでて、昼休みを長くとりのんびりしていると、談志師匠から電話がありました。昨日発送したとうもろこしがたった今着き、ゆでて食べたところ「実に美味い!!自信を持っていい。俺の名前を使ってドンドン書いたり、宣伝していいよ」という電話でした。急な電話でビックリしました。最も電話はみんな急だけど…。師匠の「食い物の話」の中にももろこしのことが書いてあるといっていました。私も読んだのですが内容は忘れてしまい、うまい返答はできませんでした。あとで思うと、この事をきいてみれば良かったと悔いが残りますが、その時は気持的におどおどしてしまい、何を話していいかわからなくなりました。でもだいぶ慣れてはきました、以前より驚かない…。
 今度、こちらから電話をかけてみよう。師匠の娘さんが銀座と六本木でお店をやっているらしいが、「一度銀座のクラブつうとこに連れてってッくんねーかい」ってたのんでみるかナー。昔青年の頃は、何度かあとを付いて仕事先に行ったことがありますが、今度どっかの講演会にでも連れていって貰うかナー、頼んでみるかナーと思っています。
 師匠は病気のため、二年単位で様々なことを計画し生活をしているそうです。ならばわたしも二年単位でおっかけなくてはいけないと思うこの頃です。
 とりあえず今年のとうもろこし新品種「恵味」が喜んで貰えてよかった。


三遊亭円丈「悲しみは埼玉へ向けて」 2002/1/16 (と)

 円丈も私の好きな落語家の一人です。もう昔、石野真子と大地真央が売り出したとき、上野鈴本演芸場をのぞいたら円丈が、石野真子と大地真央を怪獣に仕立てた奇抜な落語をやっていました。超ナンセンスなネタでしたが、あれほどバカバカシイものは誰もやらない。「グリコ少年」という新作で売り出し、次々と新作を発表していた頃だと思います。
それ以来いつも円丈には注目していました。かといって、寄席にもあまり行けないので、落語を聞く機会は少ない。去年と今年は新春寄席中継に出ていて嬉しかった。一昨年は、初席に行ったら日記のネタで爆笑だった。初席にはぴったりのネタで群を抜いていた。その円丈が名作「悲しみは埼玉へ向けて」のCDを発売したのです。
 「悲しみは埼玉へ向けて」は北千住の駅で電車の発車をまつ一人の男性の独白みたいなもので、北千住から東武伊勢崎線沿いの町の様が描かれています。超地域ネタでこの辺りを知らない人にはひどく退屈するのではないかと思うのですが、私にはこの噺を聴くと切ない思い出が甦るのです。

 中学、高校と卒業するたびに、進路についてどうしたらよいかという悩みが、大きく広がっていました。その頃落語家になりたかったのです。兄たちのいなくなった家を守るため、そして高校入学と同時に大学病院に入院してしまった父と農業をやりながら家を守った母を安心させるため、農業を継ぐことになったわけです。一度は農業を継ぐと決意したのだけれど、冬の農閑期になるとまた、東京に行きたい、落語家になりたいという夢が芽を持ち上げてきます。そんなことが数年続き、立川談志師匠に手紙を書き、一週間ほど師匠の後をつかせてもらう許可を得ました。埼玉の八潮と言う町に住む兄のところに泊まり込み、数日ご一緒させていただいたのです。新橋のガード下の寿司屋や浅草の小さな食堂にも連れていってもらいまし、文化放送に行ったり、帝国ホテルのパーティーに出席されている師匠を待つため、東宝名人会に連れていってもらいそこで待たせてもらいました。紀伊国屋の談志ひとり会にも行きました。そこでは楽屋にはいないで客席に行くように言われ客席の端っこで聴いていました。銀座にある美弥というバーにも連れて行ってもらいました。都内の移動は電車が多く、その時の切符はお金をもらい自分で買いました。師匠は国鉄のパスを持っていました。事務所の「立川談志の会」と大きく書いてある車での移動もありました。師匠の田舎の深谷ネギが後ろにたくさん積んであって農村の香りがしたのを思い出します。
 師匠の後を数日間ではあるけれどつき歩いて、わたしは落語家にはなれないと強く感じたのです。たぶんこの一週間で落語家の夢をあきらめたんだと思います。落語家にはなれないけど、落語とかかわって生きていくことも出来ると…。それはご一緒したときの師匠の助言も大きく影響したと思います。
 毎日、東武線の草加駅から、地下鉄日比谷線直通中目黒行き電車で師匠の元に通いました。最後の日、兄の家に泊まり、帰りは東武伊勢崎線経由で、前橋、新前橋を経て沼田駅に帰りました。浅草発準急伊勢崎行きに乗った私は、少年の頃からの夢を東京に置いて来たのだと思います。田舎育ちの、内気な青年が、行動力も無く、積極的な行動もとれず、夢をあきらめた青春の一ページは、三遊亭円丈の「悲しみは埼玉へ向けて」を聴くと甦ってくるのです。そしていつもソットつぶやきます。「悲しみは埼玉へ向けて、そして群馬へ…か」と。



先代(五代目)柳家つばめ師匠の落語 2001/12/18 (と)

 つばめ師匠の落語のテープはない。もちろんビデオもないので印象として覚えているだけで、時がたつと風化してくる。誰かもってないだろうかとネットで探していたら、親切なマニアの方が現れ、「升田幸三伝」と「笑いの研究」さらに石巻での談志師匠の「ぞろぞろ」45分も送って頂いた。その方は宮城の方で田谷さんという方でした。私にとってはありがたい、ありがたい方で感謝に堪えません。それは秋口の事ですから、もう3ケ月もたってしまいました。MDと言うものに収められておりましたが、それは私にとっては最新の道具ですし、プレーヤーを持ってないのですぐには聴けず、持っている知り合いを捜したのですがなかなか見つかりませんでした。やっぱり買おうかとカタログをネットでもらったりしていたら、12月になって一番親しいで家で見つかりました。そしてすぐに聴いてみました。オーバーな驚きのセリフが楽しいし、顔や仕草も想像出来ました。現代にこういう落語をする人はいないのではないかと思います。昔でも「アメリカ第七艦隊」などやっていたんですから、今なら「アフガンの憂鬱」くらいはやると思うのです。しかしお年を召すとどんな芸風になったかは想像出来ません。あまりしつこくなくさらっと演じておりました。あのナンセンスのところの口調はマネして見よう。ラストの「ばーかばかしいお笑いを」と言うところは素人落語でマネはしておりましたが…。

 30年ほど前に片品村に来演して頂きました。片品村での初めての落語会だったと思います。この交渉に錦糸町の駅ビルでやっていた師匠の講演会に出かけていきました。その時喫茶店で話をさせて頂いたことを思い出しました。静かに村のこと、落語会のこと、私が初めて作った千社札の話などをしました。つばめ師匠のことは本当に好きだった。長生きしていただければ、もっと話も出来たし、家のリンゴももろこしも、食べて貰えたのにと思いました。本当に良い師匠でした。

 パソコンを始めて良かったことの一つにこのテープを送っていただいたことがあげられます。田谷様本当にありがとうございました。ありがとうございました。

談志師匠の携帯ストラップ 2001/11/29 (と)

携帯ストラップ この携帯ストラップは、落語CDのおまけです。しかも書いてあることがふるっている。小判のような金色の板に次のように…。



「携帯電話なんぞ掛けてくるなよ・立川談志」と書いてあります。
 裏には、山藤画伯の書いた、お馴染み師匠の似顔絵がある。



ぐんぐん群馬の落語会 2001/11/15(と)
 暮れから正月にかけて、群馬県内で行われる落語会を書いてみます。公立の文化施設の主催によるもののみです。あなたは、どの落語会に行きたいですか。私は前橋の立川志らくのチケットを手に入れました。本当は笠懸の花禄との二人会が良いのですか、ちと遠い。

三遊亭圓楽 12/9【日】14:00開演 吉岡町文化センター 前売り 2000円
立川志らく 12/10【月】18:30開演 前橋市民文化会館 前売り 2500円
三遊亭金馬 1/20【日】 14:00開演 高崎市文化会館 前売り 2500円
柳家花禄・立川志らく 1/17【土】 18:30開演 笠懸野文化ホール 前売り S3000円
三遊亭圓歌 2/10【日】 14:00開演 大胡町生涯学習センター 前売り 2500円
春風亭小朝 2/17【日】 15:00開演 玉村町文化センター 前売り 3000円



古今亭志ん朝急逝 2001/10/27 (と)
 私は落語が大好きです。でもそれほど詳しくはありません。それぞれの落語の細かなセリフまではわかりませんし、タイトルのわからない噺や、聞いたことのない噺もあります。またタイトルだけでは内容のわからない噺もあります。だからマニアの前に出ると、ほとんど素人みたいなものです。志ん朝のトリの寄席に十日間通ったとかいう大ファンの方の話もききますが、私はそれほど聞いていないのです。何回生で聞いたか思い出して見たのですが、たぶん20回くらいではないかと思います。30回はきいてないと思います。そんなファンですが、志ん朝の事を少し書いてみます。
 志ん朝は確かに上手いし、軽快な口調で流れるように演じます。ごく最近では高崎葡萄屋寄席での「子別れ」池袋演芸場二の席、中トリの「首提灯」とか上手いナーと思い、いい気分で帰って来たのは覚えています。しかしいつも少し不満が残ります。それはまくらです。本題に入る前のまくらに満足出来なかったのです。まくらが当たり前すぎると言うか、昔から使い古されたモノでした。まくらでもすごく上手いから、つい笑わせられますが、何かつまらないナーと思ったモノです。それは芸風と言えば、一言で片づけられるし、現代のまくらを語る必要は無いかもしれません。しかし私はまくらだけは満足出来なかった。そんなことを時々思っておりました。
 新金原亭馬生と志ん朝、伯楽かく師匠
1999年9月に知り合いの金原亭馬治さんが11代目の馬生を襲名した時の披露宴に私も出席させてもらい、志ん朝を目の当たりにみました古今亭の総帥志ん朝が挨拶、迎賓から、送賓と私のすぐ前にいた。嬉しくてゾクゾクしました。「おぉおー、志ん朝だ!!」そういう感じでした。その時に撮った写真が左の写真です。
 このごろ考えていたことは、小三治から入って落語ファンになった、中学二年になる長男に、今度志ん朝を聴かせようと思っていたことです。それが実現しなかったことは残念に思っています。一度寄席の高座で「そば清」を聴いてはおりますが、もう何回か生で聴かせてあげたかった。今わたしは、貧乏で中断しておりますが、もしまた落語会を企画する事があれば、志ん朝を片品に呼ぶこと、談志、志ん朝二人会をプロデュースすることが夢だったのです。

 私は志ん朝師匠の死が、他の落語家、特に若い人達にどのように影響を与えるのか注目しています。特に志ん朝師匠を尊敬していた人達が…、どういう気持で落語に精進していくかです。もうしばらくして寄席に行ったらそんなことも考えながら聴いてみようと思っています。それにしても、人間63歳で無くなるのは若い死だと思います。こころ残りだと思います。もう一度無くなった頃の新聞記事を読んだら胸が熱くなりました。
 

談四楼師匠の新刊 2001/8/25(と)

談四楼の新刊 立川談四楼師匠は群馬県の邑楽町、そして大田高校出身で、歳も近いし、小説の好きな私は、特に声援を送っている。昔は村の成人式の講師に頼んだり、落語会にお願いしたこともあった。

 一昨年、談四楼師匠が日刊ゲンダイのコラムに林檎亭のトウモロコシ『味来』を取り上げてくれて、それが大評判をとり、一気にお客さんが倍増と言うことになった。記事は読むけど、実際注文をしてくれるのは少ないのだが、この時は400人弱の注文が林檎亭に殺到した。これもひとえに師匠のおかげ、林檎亭がある限り足を向けて寝られない。それ以前もいろいろ雑誌などに書いていただいていた。だから農産物の美味いものを師匠に紹介するのも私の役目として心がけている。

 談四楼師匠は小説を何冊も出版され、専修大学の講師を勤められ、今度その内容が「落語的ガチンコ人生講義」と言うタイトルで新潮社のOH文庫より出版された。師匠にいただいた本を読むと、これは面白い、相当面白い、かなり面白い、傑作だと思う。私が待ちに待った作品と言える。是非皆様にもお買いあげいただき、読んでもらいたいと思う。私も何冊か購入して、知り合いの落語ファンにプレゼントしよう。




幻の噺家 宍田権助 2001/4/26 (と)
 
 落語家になりたかった彼は、夢が叶えられず百姓になった。高校生のときの文化祭、社会人になってからのアマチュアグループサウンズとの共演、さらに素人落語の会で数回高座に上がった事がある。今思うとプロになっても売れなかったろうし、今の姿が正解だと思う。
 この人の落語は、結構好きですが下手です。かなり下手です。激しく下手です。しかしオレは面白いと思います。気に入ってました。でも、もう生では聞けない、引退をしたのですから。あまりにも下手なんで、人前でやるのが恥ずかしくなったのだと思います。今までに聞いたことのある人は幸せだと思います。左の写真は彼の最高傑作「ミュージカル落語、失恋難民の詩」熱演中。ポシェットを肩からかけ、キティちゃんの人形を持って登場し、東京キッドブラザースのミュージカルナンバーも歌いました。めちゃくちゃでしたが面白かった。

 得意ネタは「道具屋」「お七」「ぶたれ屋」「宮戸川」「失恋難民の詩」「アンジャーネー」。
得意ネタと言うより、それしかできなかった。

 そんなわけで、今日は宍田権助師匠を紹介致しました。




新宿末広亭春夏秋冬「定点観測」を読む 2001/3/24 (と)
千八拾人の芸人さんのこと

 去年の11月頃、アマゾンというネツトの本屋さんをのぞいたら、新宿末広亭春夏秋冬「定点観測」という本の広告が出ていた。買いたいと思ったけど2800円で高いし、他の本を買い求めたばかりで、「あとでいいやー」と思っていた。でも時々思い出してしまうので、おとつい、前橋の群馬で一番大きな書店、煥乎堂で捜したら4冊ほど平積みになっていた。やっと見つけたのだが嬉しかった。手にとって見ると読みやすいし面白い。また知ってる芸人が次々登場し迷うことなく買ってきた。
 この本は読売新聞の文化部次長永井好弘という人が、一年間末広に通い詰め、最初ネツト上で発表した文章に加筆し出版したもらしい。芸人と寄席に、愛情を思い切り込めた感想文と言っていい。これは楽しい。知っている芸人、知らない芸人、昔にきいたままの芸人、が1080人も登場する。私は年に数回しか寄席に行けない。しかしこれを読むと毎日通ったような気分になるから不思議だ。また是非聴いてみたい落語家も何人か出てきた。私も良く書くけど入り込み客の数も書いてある。これによってなおさら臨場感が増す。良くこういう本を書いてくれたものだ。中でも私と同じような感想がところどころ出てくるのが嬉しい。その中の一つ、トリの落語家が漫談で下りたときの落胆、情けなさは、その通りと叫びたくなった。
 かみさんも言っていたが、こういう本、誰が買うんでしょうか。寄席に行くだけでもマイナーなのに、そこに通い詰めた、変わり者?の書いた、変わった本、「ほんとにどんな人が買うだっぺか」追跡調査をフジテレビの朝番組目覚ましテレビの、目覚まし調査隊に頼んでみようか。
 読売をとってないのでわからないが、この著者は、寄席演芸について記事もたくさん書いているはずなので注目してみよう。こうしてこの著者の名を何度も見ていると何処かで名前を見たような気がしてくる。
こういう本は350ページでもすぐ読んでしまう。あーあ楽しかった。

 新宿末広亭春夏秋冬「定点観測」 長井好弘著 株式会社アスペクト刊 2800円税別 370ページ 最高傑作 超マニア本 
皆様もまずは立ち読みを…。そしてご購入を、そして図書館に欲しい本の中の一冊として要望をお出し下さい。別に頼まれたわけでもないのに…そんな気持ちに成りました。

ホームページ 江戸・網 http://www.edo.net/edo/  の中の「寄席散歩」ご覧下さい。私もいまさっき見つけましたが、ここは長井氏が書いているようです。



談志師匠の落語CD集 2001/2/2(と)
 私は師匠のCDはたいてい買うことにしている。それは好きなときに楽しむことが出きるし、他の人にも聞いてもらいたいからだ。家の車はCDプレーヤーが付いてないので、一度テープに録音してから聴く。町に出るのも沼田市が一番近くで30qもあるのでこの行き帰りは落語に限る。落語が飽きると、昔の流行歌だ。歌は相変わらず古い、新しい曲を買わないので昔のLPを録音したもの。ワンツーおじさんとヤング101、森田公一とトップギャラン、岡田奈々、東京キッドブラザースのミュージカルに、小椋桂てなところ。たまにはベートーベンの音楽とか、曹洞宗のお勤め般若心教なども聴く。カーステレオのお経にはガソリンスタンドの若い衆がビックリしてたっけ。でもとにかく落語が多い。その中でも特に談志師匠のネタが。
 先日この下の写真の落語CD集を長男の耕介が聴いていた。前は聴かせようとしたけどダメ、小三治師匠しか聴かなかったが、いよいよ談志師匠にも興味がわいたようだ。シメシメ…。それはいいのだが、このCDは師匠のホームページ「地球も最後(おわり)ナムアミダブツ」から購入すると誰でもサインが貰える。落語会の会場で購入しても貰えるらしいが。サインとか特に欲しがりはしないが、貰えれば貰えたで自慢の種になる。私のものにはこう記してあった。「リンゴ、トウモロコシ(未来)に幸あれ」。そのページはここをクリックして下さい。

談志師匠の楽しい凄い落語集



談志師匠片品林檎亭現る 2000/10/16 (と)

 今日の夕方5時、談志師匠が片品林檎亭にお出でになりました。急に来られたので驚きました。これで3度目の来園ですが、わたしがここで会うのは初めてです。簡単な挨拶のあと、店先のもろこし『ゆめのコーン』をみてもろこしの話が始まりました。皮ごと蒸すと美味いという師匠のご注文で、皮を2〜3枚つけて何本か蒸かす準備をして火をかけて、りんご園を案内しました。かみさんが沼田にリンゴの配達に行ったので私が全てやります。リンゴは北海道で生まれた「ハックナイン」という珍しい品種を食べていただきました。師匠の動きは早く、美味そうなのを私がもぎ取ると、師匠自らむいて食べたり連れの方に上げたり、私も負けずにむいてほかの人にさしあげました。密も点に入っており「これは美味い」と言ってもらえました。「この前書いたけど(私への葉書)リンゴは良くわかんないんだよな、生だけなのか、他にあまりないだろう…」という話をされました。途中でもろこしの火を切りに売店に戻り、ジュースリンゴを洗い、しぼる準備ともろこしを出す用意をして、また園に戻り話をしながら、引き返しました。「りんご園に初めて行ったのは、小学生の修学旅行でね。」「そこ信州ですか」。「そうそう」。昔のことを思い出されたり、三橋美智也の「林檎村から」などを口ずさんでいたのではないでしょうか。
 もろこしを出して食べていただきました。すごい勢いで連れの方に説明し、「これ、チョット早くないか」といって私に食べて見ろと差し出しました。一本のもろこしの、師匠が食べた、隣をかじりました。皮をつけて蒸かした物が少し早かったようで、もう少し火を通すことにしました。むいた物は蒸かし具合がちょうど良く一本平らげられました。師匠は本当にもろこしが好きのようです。その間にも、師匠の紹介でもろこしをうちから買ってくれた方が、喜んでいたことや、最盛期の『味来』の旨さが素晴らしいことや、もっと軟らかいことなどつぎつぎと連れの方に、また私に話して下さいます。これが今年の最後ですというと、お連れの方と師匠に今年最後のもろこしのご注文を頂きました。高崎の葡萄屋の文さんにジャンボカボチャや飾りカボチャをお買い上げいただいたら、その値段の交渉もシャレにしていただきました。またうちの店の、小さな手提げ金庫ののっている机の前面に貼ってある千社札を見て、「これ、いろいろあるから送ってやろう」といってもらいました。旅先でチョツト思いついて、口に出されたのですが、それを実行してくれるのです。そんなふうにいわれて何度か本や洒落談志師匠とGONSUKE札などもらったとがあります。その時「ティーシャツは届いたかい」とも言われました。届いてますもらいました。
 私は師匠のサイン色紙や、何かを欲しがりません。こだわらないのです。心の中にいつも思い出や、やりとりをしまっておきますから。でもホームページを開いてからは、師匠と一緒になったときは写真を写させてもらおうと思っていました。トラックにいつも、入れておくカメラを持ち出し、梅田屋の旦那さん賢二さんに撮っていただきました。帰りしな嫁さんによろしくと言い残し、車に乗って、いつまでも車の外に手を出してふっておられました。これで30から40分。普通の人なら、これだけのことをするのに1時間以上の時間を費やしたろうにと思いました。濃密な、充実した時間でした。何か自分でもいい仕事ができたような気がして嬉しくなりました。夕方でもあり、他にお客さんがいないのが残念でした。もし誰かいれば、その人達も面白かったろうに楽しかったろうにと思いました。師匠の本当の姿が、人柄がわかったろうにと思いました。

 私はこれで満足したわけではありません。いろいろ聞きたかったのです。話がしたかったのです。それはつい先日の師匠のホームページに出ていた映画のビデオ「奇人達の晩餐会」の話。師匠のインターネット論。うちのページから師匠を知り、落語会に行き感動しファンレターを出したというセッキー様の話。師匠の追っかけホームページ縁の下のきりんさんの話。
 そしてチャンスがあればお願いしようと思っていたわがホームページの「片品への提言、あるいは一言、または農村に一言」の原稿を書いてもらえないかと。原稿料は農産物でお願いしますと。いつか頼んでみるつもりです。でも頼めないかな。落語会の出演を頼めるのだから、原稿を頼んでもおかしくはない。もし万が一、ボッとして、ひょこり、運が良く原稿を頼めたらまた自慢します。

 立川談志師匠今日はありがとうございました。落語を生ではなかなか聴けないけれどテープではたくさん聴きます。ホームページも見ます。本や雑誌も全て買います。12月15日金曜日、夜、笠懸野文化ホールの立川談志独演会ははるばる往復3時間以上かけて聴きに行きます。お元気でご活躍下さい。私の夢は、旅先で、旅公演中の師匠を楽屋へ訪ね、その落語会も楽しませていただくことです。
そして今日は、師匠がお元気そうで安心しました。

 10/17 追記 今日梅田屋旅館の若女将、同級生の由紀枝さんの話によりますと、師匠は大好きな秋桜を見に水上町の藤原スキー場から紅葉の坤六峠を通って片品に入られたそうです。そういえばお帰りになる前、「〇〇とコスモスが大好きで今日はコスモスを見に来たんだよ。」と言われたのを思い出しました。そして10時半過ぎに、東京に向かわれ、午後2時にTBSラジオに出てました。これはかみさんがラジオを聴いていました。面白かったようです。



自慢 2000/10/2(と)
 本日師匠から贈り物が届きました。これは本かなと思ったら次の品でした。談志師匠から何かもらえるというのは誇りです。ですから皆さんに自慢します。もう高校生の時からのファンですのでいろいろともらい物をしました。
 右の様な手紙が添えられていました。さて左は何でしょう。A4のスキャナーでコピーした物です。わかりますか。皆様もなんだか知りたかったり欲しいようでしたらここをクリックして下さい。そして買うかーを見てみて下さい。

   


尾瀬に行った話 6/13(と)

 談志師匠は、暇を見つけては沖縄の海に行くらしい。そして、ひがな一日海に浮いているのが好きだという。沖縄からの葉書を頂いたこともあるし、ホームページやエッセーでよく文章にしている。テレビでは、来年上岡竜太郎と一緒に沖縄の海に行く約束をしていた。上岡は「そのかわり私のマラソンのゴールをとにかく見て欲しい」と言っていた。
 尾瀬の遭難騒ぎや、ついこの間買ってきた文庫の『尾瀬殺人湿原』を読み始めたら、師匠と尾瀬に行ったことを思いだした。
 毎度古い話で恐縮ですが、まぁ聞いて下さい。20年前の頃の話です。もとは私が尾瀬の絵はがきで勧めたような気がするのだが、詳しいいきさつは忘れてしまいました。

 季節は今より少し先、二泊三日で談志師匠を尾瀬に案内することになった。どこから入山するか、どこに泊まるか、どの山に登るかいろいろ研究し計画を立てた。師匠と話すだけでも舞い上がってしまうのに、師匠を尾瀬に案内する、ウーこれは大変だ。大清水から入り、長蔵小屋に一泊、翌日は体調に合わせ燧ヶ岳に登り、その後見晴泊まり。そして最後の日は尾瀬ヶ原を散策し鳩待峠に出る。
 師匠は、熱くなり汗をかくと、だんだん着物を脱いでいきジーンズの短パンひとつになった。そして歩くのは相変わらず早い。途中どんな話をしたのか、全く思い出せない。案内に誰か頼めば良かったのだが、平日の二泊は無理だったのだろう。今ならガイドも頼めたのに。夕方長蔵小屋についた。自分でも尾瀬の山小屋に泊まるのは初めてだった。山には山の決めごとがあり、制限も少なからずある。そんな山歩きは好きでないらしく、翌日急遽予定を変更し、また同じ道を下山した。そして草津の師匠の知り合いの温泉ホテルにいった。尾瀬ヶ原を見せたかったのに、それだけは残念だった。
 ふたりで温泉に一緒に入ったとき、今回の旅のお礼を言われ、急に下山した理由も説明してくれた。二日みっちり一緒にいたのに、どんな会話があったのかほとんど忘れてしまった。ジーンズの短パンをはいていた師匠の印象、温泉で話したこと、ホテルで言葉のゲームをやったことだけ。師匠は山より海が好きだったんだなぁと言うのが、やっとわかったような気がする。
 
 この時のことは、ほとんど覚えていないけど、今考えるとすごい体験をしている。師匠と一緒に尾瀬の長蔵小屋に泊まった。師匠と一緒に温泉に入った。



結婚式の『芝浜』
 2000/ 4/5 (と)

 今から15年も前の話。オレ達の結婚式の時は、結婚式場のパックはまだあまり盛んでなく、自分で会場を選び、内容も自分たちで企画できた。式場のプログラムもあるが、それは関係なく好きなことがやれた。
 丸沼高原スキー場のシーズンオフにレストランで式と披露宴をやった。式と宴会を別会場にして、一部の式のあと立川談志師匠に落語をお願いした。膝代わりにケーナの演奏を志村日風水さんにお願いし、演題は夫婦の噺もいろいろあるが、一番好きな噺『芝浜』を演じてもらった。50分くらいの長講だった。すごいいい出来で感動的な高座だった。長い拍手があった。泣いていた人もいた。師匠の落語を通じてこんな夫婦の生き方もあるということを考えてもらえればと思ったわけで大成功だった。結婚式にいって談志師匠の落語、それも『芝浜』が聴けたのだからお客様には満足していただけたことと思う。今考えると超多忙スケジュールのなか、よくこ私たちのこのお願いを引き受けてくれたものだ。これが、師匠の優しさだと思う。
 費用は、そのころのギャラの相場の半分以下の額でお願いしをしたような記憶がある。披露宴でもお祝いの言葉と漫談も聞かせて頂いた。そのあと途中で県南の館林市である落語会に出発された。タクシーで4時間、前座さんだった志らくさんに落語の稽古を付けていたと、あとからタクシーの運転手さんから聞いた。
 師匠の落語『芝浜』を生で聴こうと思ってもなかなか聴けない。私も確かこのあと一度聴いただけだと思う。さらに結婚式の余興で聴くことなどできない。また師匠も結婚式での『芝浜』は最初で最後ではないかなと思う。
 オレ達の結婚式に立川談志師匠に『芝浜』を演じていただいたことはわが家の大きな自慢のひとつである。写真は、当日友人の須藤澄夫さんが写す。



スキーと落語の会 柳家小三治師匠  2000/2/26 【と】

 落語を聴くには好きな落語家に片品村に来てもらい、みんなでお金を出し合って、落語会を実現するのが一番いい。それにはお客さんを集めなければならない。しかも赤字を出すことは許されないから結構大変な思いをする。若いときは気力があるから何でもできる。それにはいい仲間がいないと実現しない。私には、いっちゃんT一君などの芸人を呼ぶときのいい仲間がいた。
 昭和55年のこと、小三治師匠一行のスキーの費用をすべて持ってギャラ無しという好条件の落語会が実現した。小三治師匠のスキーの腕前は有名で、私も一緒に乗ったけれどさすがに上手かった。スキーウェアの上に羽織ったメキシコの民族衣装の肩掛けが印象的だった。小三治師匠は『小言念仏』と『芝浜』の二席。そのほか小里ん、〆治、談生、馬治、橘右之吉の寄席文字もあったような気がする。温泉民宿の辰巳屋が満員になった。『芝浜』の出来も抜群だった。スキーの様子や落語会の模様が夕方のフジテレビのニュースのトピックスで放映になり注目もされた。すべて順調に運んだけれど最後の最後で、『芝浜』を演じておりたとき舞台に上がる踏み台が崩れたのか小三治師匠がこけた。テレビを見た人は、スキーだけにすべったと言うことでうけたらしい。やらせ説まで飛び出した。楽屋で医師の素人落語家空巣家小どろさんが、さっそく診てくれた。産婦人科の医師なので専門外だったが、幸い怪我は大したことがなかった。もっと大けがになれば私の責任を強く問われるところだった。大したことがなくて胸をなで下ろしたのを覚えている。その小どろさんは、横浜の方で保健所長をしている。健康講演と落語で引っ張りだこらしい。
 私は、芸人さんに色紙を書いて貰う趣味はないが、小三治師匠のものは大切にとってある。「雪どけの牛舎の窓にけぶりたつ」という即席で創ってくれた俳句が書いてある。このことがきっかけで自分でも有名人を気取って何枚も色紙を書いた。「優しくなりたい、強くもなりたい」というのが好きだった。一番の傑作は30過ぎの頃書いたもので「花嫁急募、委細面談」というヤツ。大いにうけたけれど効果はなかった。
 わが家は、二代揃って小三治師匠のファンであるというのが自慢です。



先代柳家つばめ師匠のこと
 二十歳すぎの青年の頃 1/18 【と】


 先代の柳家つばめ師匠が大好きだった。『恐怖の歯科医』『笑いの研究』など面白かったし、そのほか吉田茂などの政治ネタや、アメリカ第七艦隊まで登場させた新作落語の旗手だった。最後の「ばーかばかしいお笑い…」というところに力を込めて下げるのも面白かった。本も何冊かだして、その当時の数少ないインテリ落語家の一人として活躍していた。本の中でギャラを公表し、都内の場合と地方の場合の出演料も書いてあった。この文章を読み、東京まで会いに行き話を決めた。亡くなった隣家の明男さんやいっちゃんなどと共に片品寄席を実現した。送迎したり、いろいろ話したり、手紙のやりとりもした。 今、生きていればなぁとつくづく思う。これがオレの素人落語プロデューサーの幕開けだった。片品では、『日本妖婦伝』と沖縄返還に合わせて民話からとった、『沖縄の王様』を演ってくれた。前座は、さん光から権太楼になっていま売れているほたるさんだった。
 オレも昔、落語をやったけれど口調はかなりつばめ師匠を真似ていた。師匠のテープやビデオが一本もない。本も貸して戻ってこなかったりで2冊くらいしか持っていない。だから懐かしくても聴くに聴けず心の中にしまってある思い出だけ。
 談志師匠、小三治師匠、小燕枝さん、小満んさんさん喬さんなども好きだから、よくよく考えると柳家が好きなんですね。その割には、小さんより円生が好きなんですが。この話を落語通にしたら「あっやっぱり時夫さんは、小さん派だねといわれました。

 もしどなたか、先代のつばめ師匠のテープを持っていましたら、譲って下さい。ダビングさせて下さい。

慶安太平記 2000/1/7 【と】
 師匠のCD全集第4期(竹書房刊全10枚20000円)の中に、講談ネタの『慶安太平記』が三席入っている。これが面白い。人物が活写されていてもう三回ほど聞いた。
 23年ほど前になるだろうか、片品から談志師匠を聴きにいく会というのをつくり、うえの鈴本まで7〜8人ほどで聴きに行ったことがある。誰と誰がいたかは、忘れたけれどお馴染みの貞一君やいっちゃんがいたことだけは覚えている。
 上野鈴本のトリ。果たして何をやってくれるか楽しみにしていたのだが、この『慶安太平記』だった。こんな噺もあるんだよと高座で言っておられましたが、落語らしくない何かつまらない話だった印象がある。
 寄席がはねて、オレ達の終電までの一時間ほど、近くのスナックで話をしてくれた。そのあとマヒナスターズの松平直樹さんと待ち合わせがあるといって、帰りしな行きつけの居酒屋を覗いていたりしておられた。
 ものすごく忙しかった頃であったが田舎から訪ねていったオレ達につき合ってくれた。もう閉店した店を特別に開けてもらってビールまでご馳走になった。今考えると手紙を出してそれに答えてもらったのだろう。そういうお願いを厚かましくも良くしたものだし、親切に対応していただいた。売れに売れてるときだから、一緒にいった仲間からオレも一目置かれた。若いからそんなお願いができたのかもしれない。
 そのころ落語が大好きだとはいえ、『慶安太平記』が理解できなかった。落語ばかり聴いてるわけではないけれど、何十年もたつと自然に落語の鑑賞力が付いてきたのだと思う。CD全集の『慶安太平記』は素晴らしかった。そしてこの噺を聴くと、上野広小路の小さなスナックで片品の仲間と師匠を囲んでビールを飲んでいるシーンが浮かんでくる。「慶安太平記の一席、このつづ
きは、また明晩」てえところです。


褒め上手
  1999/12/8  【の】

 私が師匠と言葉を交わしたことはあまりありませんが、特に印象に残っているのが根津のお宅に伺ってマンションの廊下で話したときのことです。師匠はその前年から報道されているように腫瘍の手術などうけておられ、遠い片品からどんな様子かと心配していました。私が農業の関係の講座を受けに東京へ3泊4日という予定で出かけたのが一昨年の2月、ホテルがとれずに根津の旅館に宿を見つけたとき主人が「根津っていえば師匠の家の近くぢゃあないか。おい、なんか持ってちょっといってみれば。」と思いついたのです。なんの準備もなくただ住所だけ持っていきました。そして2日目の講座の前に朝早く宿を出て師匠の家を探しました。根津神社の近くだと主人から聴いていたのでちょっとぐるぐる回ってから本通りに出たらそこにありました。その日は時間がなくそのまま、その夜は行ってみたけれど留守、次の夜「どうせ留守だよな」と思いながらチャイムを鳴らすとなにやら人の気配。そしてなんとパジャマの本人がドアから顔を出したのでした。誰か出て来るにしても奥様か、お弟子さんだろうと思っていた私は心臓バクバク、声は裏返り、とりあえず自分がどこの何者でささやかなお見舞いを届けに来た旨伝えました。師匠は「いまかみさんがいないんだけどね。」と言って「もっといいヤツがあったはずだがまあいいや」と奥の方から手拭いを出してきて下さって「時夫君は元気でやっているかね。」「まあ農業というものの将来も・・・」とか、もちろん私が口を挟む間もなく立て板に水、まあ、こっちは師匠が出てきたことで舞い上がってしまってなにを言われているのかついていくのがやっとという状態ですから。
 「では、これで失礼します」と頭を下げたときちょっと間をおいて「若いね。前より綺麗になったんじゃあないの。」とのご指摘。・・・。エレベーターに向かって歩き出した背中に「そこいくと地下鉄で上野に出られるから、すぐなんだからタクシーなんか使うんじゃあないよ。」と呼びかけて教えて下さって。振り向いて「はい。」って頭を下げてドキドキしたまま宿まで歩きました。
 その日私は寝坊して化粧もしていなかったし、マンションの廊下の照明はそこそこのものだし、師匠が出てきて緊張してひきつってただろうし、まあ根っからの芸人さんですから人を褒めるのがうまいわけで・・・とか思いながらもつい、頬のゆるむエピソードです。

談志師匠のお米 1999/11/7【と】

  わたしは、一年に二度ほど師匠に農産物を送る。わが家で穫れたもので味に自信のあるものをほんの少しだけおくる。
 それを美味いと褒めてもらえるとやたら嬉しくなる。またそれを大きな励みにしてきた。そのお返しだったりお歳暮だったりするのだが、いろんなものをいただいた。浴衣は、いくつももらったし、手ぬぐいは、二十本くらいはもらったろう。全部取っておけば大変な価値になったろうに、自慢しながらたいてい人にあげてしまった。浴衣は、母親に仕立ててもらってよく着ていた。昔、師匠の浴衣と雪駄で初めて買ったトラックで夜遊びにいったこともある。著作も何冊もいただいた。たいてい発売前に本屋に注文するので、同じ本が2冊になったりする。
 その談志師匠から今日お米が届いた。師匠は、新潟に田圃を持っている。百姓は、米を作らなければだめです。わたしは、もう15年も米を作っていない。もう作り方もわすれた。それでは本当はだめなんですが。そんな意味で田圃を耕している立川談志師匠のすごさを感じる。この田圃というところがすごいところです。
 この米は、昔子どものころやった天神祭りの醤油飯といこうかと思っている。
 上のシャレ札は、師匠のお米に貼ってあったものです。

 農業で日本一をめざせ 2000/ 30年も前のこと【と】
 
 わたしが落語家になろうとしてなれなくて、家業を継いでからの数年後まだあきらめられずに会いに行ったときこう助言してくれました。「落語家になるのだけが、落語と関わることではない。地方に噺家を呼んで落語会を開くとか、道はいろいろあるし応援するぜ。また農業なら農業で日本一をめざせばいい。例えばトマト作りの日本一になれば」と。超売れっ子の談志師匠が夕方の満員電車のなかで話してくれました。
 そんなことがあってすぐ、若い人を紹介してもらい片品寄席を開いたのです。その落語家が、まだ前座だった、立川孔志の立川ぜん馬さんと立川談吾の鈴々舎馬桜さんであった。今年トマト作りを始めてそんなことを思い出した。
 日本一とはいかないまでも、とうもろこし『味来』の栽培で、皆さんに喜んでもらえるものができるようになったのは、落語家でいえば真打ちにに匹敵するだろうし、あのときの師匠の言葉にほぼ近づいてきたなと思う。そう思うことにしている。
 師匠の人生全集その1『生意気ざかり』の文章を読んでも感じたのだけれど、わたしに対しても適切な状況判断と本当にまじめに、あたたかい助言をしてくれたものだと今しみじみと思う。

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