沼田城の移り変わり

  西暦   940年 天慶   三年  荘田城 「井戸上」    城主 初代   沼田景泰   小沢城に移るまで        8代   158年間    
                                    
        1405年 応永 十二年  小沢城「町田町」    城主 初代   沼田景朝   幕岩城に移るまで        4代   114年間
                                                     11代   沼田泰輝   幕岩城 沼田顕泰の父       
        1519年 永正 十六年  幕岩城 沼田高台滝棚 城主 初代   沼田顕泰                                  13年間
          
        1532年 天文   元年  沼田城「倉内城」    城主 初代   沼田顕泰 三浦系沼田氏十二代万鬼斎顕泰 

        1551年 天文二十一年  上杉憲政  北条に追われて水上粟沢をへて越後長尾景虎に頼る。長尾景虎 上杉謙信となる
                              この事に付いては、平井城をご覧下さい。
        1559年              沼田顕泰 上杉謙信に服する 上杉憲政が越後に逃れ 上杉謙信奪回に来たのかな。
    
        1563年              上杉輝虎  沼田に入る。
  
        1566年              沼田顕泰  倉内城「蔵内城」を弥七郎朝憲に譲り川場へ隠居する。

        1568年              上杉謙信 沼田城に入る。
        1568年              沼田顕泰は天神城に来た嫡子弥七郎朝憲を謀殺する 
        1569年  上杉城代    柴田右衛門尉、
        1570年      城代    上野、川田、(上杉方)藤田    3名
        1578年       〃     藤田能登守  (上杉謙信 歿 49歳) 沼田は北条氏の支配下に属す。
        1579年              北条勢 名胡桃城を攻める。
        1580年              真田昌幸 蔵内城へ入城。
        1581年              沼田平八郎景義謀殺される、沼田氏滅亡。( 沼田顕泰の側室ゆのみの子)
        1582年      城代    矢沢頼綱(真田昌幸の伯父)。これより真田、北条2氏により沼田争奪戦を繰り返す。
        1582年3.11          武田滅亡後沼田は織田信長の支配下、真田昌幸、沼田入城.
                     〃     滝川義太夫「織田が支配し、」
              6.2    〃     矢沢頼綱(真田昌幸の伯父)     
        1585年              北条氏沼田攻む。          
        1587年              北条氏方沼田攻む・川田城再築 
        1589年   猪俣城代   真田昌幸、北条氏と和して沼田城は北条氏の有となる、沼田城主猪俣能登守「豊臣秀吉の北条氏
                            と和して上洛の条件で沼田領の三分の二を北条、三分の一名胡桃城は真田領」沼田領裁定の執行

                 北条氏直、猪俣那憲に沼田城の警固を命じる。猪俣は北条氏の重臣で沼田城将として遺わされた。
                 厳重な警固が命じられた沼田城が真田に対して境目の城としてかなり重視され大鉄砲などまで送り込まれた。
                 (猪俣能登守と伊賀守と有るがとちらかが誤りでしょう)
                 
        1589年   猪俣城代   名胡桃城を攻略、
                 
                 武蔵国 猪俣党を先祖とする猪俣伊賀守は北条氏那の家臣として上野攻略の先鋒となって活躍し、天正17年
                 沼田城主となる、名胡桃城事件の首謀者で現地の責任者であった。名胡桃城代鈴木主水は責任を負い切腹する
                 この事を知った秀吉は激怒して、あの秀吉の一夜城で有名な小田原城攻撃のきっかけとなる。
                 これで北条氏も滅びる事となる。
       
        1590年  沼田城主  真田信幸沼田城に入城 初代城主 領内検地をする。
        
        1673年  5代城主  真田信直  
        1682年            沼田城破却、城増築して幕府に咎(とが)められ、取り潰しになる。
        
                           沼田 代官政治始まる。

        1682年〜1686年     竹村惣左ヱ門、熊沢武丘ヱ。
        1687年〜1690年     島村惣左ヱ門、
        1691年〜1693年     稲葉平右ヱ門、
        1694年〜1700年     竹村惣左ヱ門、
        1701年〜1702年     中川吉左ヱ門、
         
        1703年         城主 @ 本多正永 伯耆守   元禄16年 若年寄 本多正永 沼田に封じられ、23年振りに城主を得る
                              沼田城再建。
        1711年〜1720年 城主 A 本多正武  遠江守
        1721年〜1729年 城主 B 本多正矩  豊前守  本多正矩駿河田中城へ移封。
  
        1730年〜1731年     後藤庄左ヱ門  再び代官政治となる。
    
        1732年〜1734年 城主  @ 黒田直那  豊前守 寺社奉行常陸下館城主 黒田直那 沼田へ移封。
                          
                                直那老中となる。 直那卒70歳
        1735年〜1741年 城主  A 黒田直純  大和守
        
        1742年〜1743年 城主  @ 土岐頼稔(よりとし)丹後守  黒田直純上総久留里城主に移封。
                                土岐頼稔駿河田中城より沼田へ移封。(老中) 頼稔卒50歳
        1744年〜1754年 城主  A 土岐頼煕(よりおき)伊予守

        1755年〜1782年 城主  B 土岐定経(さだつね)美濃守  
                                                       定経大阪城代となる
        1782年〜       城主  C 土岐頼寛(よりひろ)伊予守

        1783年〜1785年 城主  D 土岐定吉(さだよし)美濃守
        
        1786年〜1789年 城主  E 土岐定富(さだとみ)
 
        1790年〜1812年 城主  F 土岐頼布(よりのぶ)山城守

        1813年〜1825年 城主  G 土岐頼潤(よりみつ)山城守

        1826年〜1839年 城主  H 土岐頼功(よりかつ)山城守

        1840年〜1847年 城主  I 土岐頼寧(よりやす)伊予守

        1848年〜1866年 城主  J 土岐頼之(よりゆき)山城守

        1867年〜1868年 城主  K 土岐頼知(よりあき)隼人正
        
                       官軍沼田入城    永井 、 戸倉  戦争  明治となり破城、ある有志により買い戻され 公園とされる。   
        

沼田の戦国時代の他の方面よりの見方

1551          天文二十一年 関東管領上杉憲政、北条に追われ水上、粟沢を通り越後に長尾景虎
                  を頼る。上杉憲政嗣子(あととり)長尾景虎( 上杉謙信)
1557 沼田顕泰は沼田平八郎景義の為に川場村に天神城を築いた。
1558〜70年 長井坂城は永録年間1558〜70年の築城と考えられており、北条方の沼田攻 めの拠点となった山城である。
1558,8 越後より上杉謙信は小川城、名胡桃城、と落し、沼田城を攻めるが落せず、沼田 北側を回り白沢、越生を通り 長井坂城に入る、これを知った 顕泰は 上杉勢に 南側を押さえられ孤立するのを恐れて 上杉謙信と和睦する、謙信は進軍して厩橋 城(前橋 。北条方)お落す、
1558 長井坂城 北条方 1558.8上杉方 1559 沼田顕泰は上杉謙信と和睦して服す。
1563 上杉輝虎 (上杉謙信)沼田に入る。
1566 沼田顕泰は嫡子弥七郎朝憲に 蔵内城を譲り川場天神城に隠退
1568 上杉謙信沼田城に入る。
1569 沼田顕泰は天神城に来た嫡子弥七郎朝憲を謀殺する。
弥七郎朝憲の妻は謙信の家臣で厩橋城の北条(きたじょう)弥五郎の娘、 1569 沼田城代 上杉城代、柴田右衛門尉
1570 沼田城代 上野、河田(上杉方)藤田 3名
1578 上杉謙信 歿 49歳
1578 沼田城代 藤田能登守 沼田城は北条氏の支配下に属する。 天正6年 小田原の北条氏政、その子氏直の支配下に置かれる。 1578 明徳寺城代「月夜野町後閑」渡辺左近進 北条方 名胡桃城攻撃の向かい側 1579 北条勢は 名胡桃城を攻める。
1579 吾妻の岩櫃城は武田の真田昌幸の支配下 天正7年 6月18日武田の先鋒として真田昌幸、北条氏沼田城代を屈伏せしめ て入城する。以来沼田鞍打城(蔵内城)は武田の勢力下と属す。
1580 真田昌幸蔵内城へ入城。
1581,3 沼田平八郎景義は逃れていた会津の縁戚より勢多女渕城を経由し沼田城 奪還に帰り赤城を越え利根村輪組の南越生瀬に陣を張ると、旧臣が集まり三千余り、 阿岨の要害に入城、本陣を発知の高王山の要害に進め、沼田城を眼下にし、一挙に 攻略しようとした、真田昌幸がこの事を知り沼田城の伯父の金子(母ゆのみの兄)に 「策略によって沼田平八郎景義を討て、そうすれば利根川の西千貫文の領地与える武田勝頼」 と書を送り、金子は領地に目がくらみ、伯父が平八郎にお前を城主になれるようとりなしてやる、 と言うと、平八郎も伯父のことばなので信じて20人のともと水手曲輪より城内に入った、 出迎えの旧臣らは従うふりをして、急に切り付けた、金子も刺した、ここに12年の苦心も 城主の夢目前に四十二歳の最期を遂げる天正九年三月十五日 平八郎の とももころされる。沼田氏滅亡、金子も昌幸にだまされ、策略にはまる。
1582 長井坂城「城代恩田伊賀守真田家臣」は真田勢力下を天正10年10月 北条氏邦は5千騎で襲来し22日で恩田伊賀守の守る 長井坂城を攻略。 1582.10 長井坂城 「猪俣能登守北条方」 1582 沼田城代 矢沢頼綱(真田昌幸の伯父)
これより真田、北条二氏により沼田争奪戦を繰り返す。 1582.3.11 武田滅亡後沼田は織田信長の支配下、真田昌幸、沼田入城. 城代 滝川義太夫「織田が支配し、」 6.2 城代 矢沢頼綱(真田昌幸の伯父) 真田昌幸沼田入城
1585 北条氏沼田攻めるが失敗する。
1587 北条氏 〃
1589 秀吉が上洛を条件に北条に和として沼田城を昌幸より北条氏に対岸の名胡桃城は 真田領に裁決。
1589.7 沼田城代 猪俣能登守
1589 小川城代 富永又七助道 1589. 沼田城主 猪俣能登守 名胡桃城を攻略する。

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