伝説から見た沼田。

発掘調査

沼田の地名については、古来からいろいろ論じられているが、文献では、平安朝の時代に、源順によって編纂された倭名類聚抄「滑田」という地名の見えたのが「ぬまた」の始めである。この名前を伝説に求めてみょう。沼田の代表的な古記録「沼田根元記」の巻頭に「そもそも沼田の根元を聞き伝え今、これを考えうるにその地形、南は赤城子持の山続き、西は三国峠、越後山、東は奥州会津、下野日光、北は武尊と山続き、そのうちふところ方十里余りに広大なる湖水ありて、幾千年なるを知らずと伝えし地なりき。然るに、天武天皇の白鳳十三年三月、日の本に大地震ありて諸国の山崩れ、水湧き出でて人民六畜の死するものおびただし。伊予の国温泉埋み、土佐国田地五十余万石没し、伊豆の国俄かに一島を生ず。上野国北山湖水湧出し上野、下野の国押流し、下総国流れ出ず、と。今爰を以って考えるに、沼田は上野北山にして、その節綾戸切れ湖水流れ出し、その跡なること相違なし」とある。又、「沼田古記録」の一節には、「昔、あかぎと子持のあやどふさがり、おおぬ(大沼)なりしを、いずも(出雲)様、ほうかた(武尊)様に請いて、すわ(諏訪)樣若きとき、あやど切らせ、水おおかたひけて、とがの(戸鹿野)の滝出来て、こぬ(小沼)となり、陸は村里となりたる故「ぬまま」・・・(不詳)・・・という人みこともちて戸かわの滝の岩を切り、水ひけて田となる。これより「ぬまま」を「ぬまた」とかえたるなり。・・・とある。 前述のように地震等の自然の力で破壊され、消滅したとも、また、人為的に湖水を消滅せしめたものだといわれ詳らかでない。
    ※ 広ぼう及び周囲                                   ※  海   抜
    
    東西・ 11.89km    南北・ 23.95km      最高・ 2,019.3m
    周囲・ 82.3km      面積・ 136.31ku    最低・ 250m

    ※ 市役所位置

    東経・ 139゜02"     北緯・ 36゜38"
    海抜・ 416.153m 


沼田市教委と市埋蔵文化財発掘調査団が発掘調査しいる沼田城跡から、本丸西櫓東側の石垣及び石段、それに鬼瓦の破片が出土した。発掘調査は、沼田公園長期整備構想に伴うもので、二重櫓南東地点を中心に数地点にトレンチ(試堀溝)を掘って進められた。見つかった石垣は高さ約1m。南北方向に約4m延びて西側に折れ、櫓台石垣の方向に約4mまで現存していた。現在の地表面より約2m低い石垣手前からは、瓦の破片や陶磁器などが多く出土した。丸瓦や平瓦の破片に混じって鯱瓦(しやちほこ)の一部や鬼瓦の破片も見つかった。沼田城は室町時代の天文元年(1532年)沼田顕泰が利根川と薄根川の合流点に近い台地の先端部に、蔵内城として築いたとされる。 沼田地域は上越国境に位置する要衝の地のため、この城をめぐって上杉、北条、武田(真田)などの諸大名の激しい攻防に巻き込まれ、沼田氏は滅ぼされた。豊臣秀吉の小田原征伐の後、沼田城の城主となつた真田信幸(之)が慶長元年(1596年)から城の大改修を行ない、本丸東隅には五重の天守閣、南東隅には三重櫓(やぐら)、北西隅には二重櫓など建造した。しかし、天和二年(1682年)に城はすべて破壊され、堀も埋められた。
発掘調査で見つかった本丸西櫓東側の石垣と石段 出土した鬼瓦の破片
資料は、1998.11.14.土曜日朝日新聞「群馬版」

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