Culture property in Numata city
沼田市の文化財

   国指定 2.  県指定   13.  市指定 52.
@ 旧生方家住宅

東日本における古き町家造りの家に住んでいた生方家は 沼田藩の薬種商であったといわれる。 始祖は沼田近在の屋形原出身であるとされるが、沼田に 定住し薬種商を営むようになった時期は明らかでない。 旧生方家住宅は妻入・板葺の町家であったが、その様式 ・技法から見て17世紀末期に建築されたと考えられる。 その後、元治元年(1864)の大修理をはじめとして数回の 改築・増築を経て現在にいたった。 移築前は、現在の国道120号線に面した商店街の町角にあ り、「ふじや」と号していたため、人呼んで「かどふじ」 と称しているうちに、いつしか屋号として用いるようにな った。沼田公園に 移築されている。

A 薄根の大桑

畑地の中にあるヤマグワで、よく茂った樹容は 美しい。 貞享三年(1686)に高須隼人が石墨村を検地した 祭、この大桑を検地の標木にしたといわれている。 幹が太く容姿端正ないとで、「養蚕の神」として 永くたたえられてきた。

B 十一面観音像

ヒノキ材の寄木造りで六臂の立像。玉眼(水晶はめ込み眼) 昭和52年に、東京芸大の本間紀男助教授が県の依頼を受け完全 修理を行なった。修理の際に解体したところ、首部の内ぐりの 部分に『奉始十一面観音釿立日 文化七年大才 庚午九月十六日 大仏師法橋決覚大勧進僧慶腎右志者為一結諸衆等現世安穏後生 善?乃至法界衆生平等利益也 』の墨書銘がみられた。 十一面観音の彫刻着手は文永七年(1270)九月十六日で、 彫刻師は決覚。発願者は僧の慶腎で、その志、すべての人々の 現世と後世安穏法界平等の利益を願うためである、との意。 伝承によれば、応永十三年(1406)に群馬郡国分の村上出羽守 なるものが利根に攻め入り、沼田氏の支城の川田・名胡桃両城 を略奪した。怒った沼田氏八代景朝は、兵を率いて村上を攻め 亡ぼし、この十一面観音像を持ち帰った。 年を経て、真田伊賀守信直が観音堂を建てて安置し、今に伝 えた。

C 城 鐘

寛永十一年(1634)に沼田城主真田氏二代信吉が 沼田で鋳造させ、沼田城三の丸の桜に掛けて時報を 鳴らした。「この鐘の音は領内領民を安らかにし、 領主の長久を祈るもの…」という意味の文字が刻ま れている。 天和元年(1682)に真田氏が改易となったため、 平等寺の梵鐘になり、その後、明治31年から沼田町 の時鐘となった。 平等寺の梵鐘となった由諸も刻 まれている。

D 太刀銘備州長船基光

銘は備州長船基光、地鉄は板目に柾がかりで、映りは顕著でな い。刃文は丁字乱れに足が入り、鋩子は乱れ込んでいる。茎は 摺上げ。質実な作で、紀州徳川家に伝来していた名刀である。 基光は南北朝時代に活躍した刀工で、正宗十哲の一人である 兼光の門人である。この兼光の一門は、備前伝に相州伝を加美 した作風である。

E 刀 無 銘(伝 長 義)

無銘。 大磨上げ。地鉄は大板目がよく練れて地沸 えつく。刃文は大乱れに互の目がる。鋩子は乱れ込 突き上げて強く返る「ローソクの尖」といわれてい る。表裏に棒樋がある。相州伝備前の系統であり、 兼光系より更に相州伝が強く沸がつき、長義の作と 推定される。沼田藩主真田家伝来の名刀であり、南 北朝時代初期の作で、 大磨上げのため「真田正宗」といわれた。

F 太刀銘長光

銘は長光。地鉄は杢目に板目まじり。刃文は互の目丁字乱れで 足がよく入る。鋩子は少々たるんだ大丸で小さく返る。映りが さかんである。彫物は表裏とも掻樋。茎は浅い栗尻で当初の鑢 目は勝手下り。備前長光の在銘品はかなり多いが、門人の代作 によるものもある。本刀は弟子の真長の代作と見られ、出色の 出来である。筑前黒田候に伝来の上、館林藩主、秋元候、から 伊東巳代治伯の手に渡ったものである。長船は、一文字の名声 に押されていたが、鎌倉時代中頃に中興の祖の光忠により復活 し隆盛を極めた。長光はその光忠の子であり、代々襲名してい る。

G 旧沼田貯蓄銀行

棟礼等が発見されず、建築年代の特定はむずかしい が、技法と文献からみて明治36年頃に建てられた と考えられる。 沼田貯蓄銀行は、明治31年11月7日に開業さ れ、その後、沼田商業銀行、利根銀行、群馬大同銀 行と改称された。 この建物は、市内に残る唯一の本格的洋風建造物 で、利根、沼田の金融史を物語る貴重な文化財であ る。

H 絹本著色地蔵十王図

地蔵菩薩を中幅にして、秦広王・初江王・宋帝王・五官王・闇魔王・変成王・ 秦山王・平等王・都市王・五道転輪王の十王図を左右五幅に描いてある。
絹本、極彩の密画で、寛正二年(1461)の作で優れた絵師の筆によるものであろう。 軸荘11幅中の1幅に『寛正龍集辛巳(1461)化主祖春』の文字がある。
伝承によれば、真田氏初代沼田城主・真田伊賀守信幸の夫人・大連院(本多忠勝の娘 =徳川家康の養女)が正覚寺へ寄進したといわれている。

I 荘田神社の大イチョウ

  樹幹に10数個所の気根が乳房状に垂下しており、荘田神社が過去に諏訪神社 と呼ばれていたために、一名「諏訪の乳イチョウ」といわれている。
  天慶三年(940)に三峰山麗の豪族・利根平八は、平将門討伐軍に加わり平氏 の若者を一人伴って帰り、荘田(井土上)に館を建てて住まわせた。
  荘田神社を館の守神とし、その頃に植えられたのが、このイチョウだと伝えら れている。

J 須賀神社の大ケヤキ

  樹勢はめて旺盛で空洞もない。須賀神社は沼田市街地の中心にあり、毎年、夏祭りとして 祇園祭が盛大に行なわれる。

K 川田神社の大ケヤキ

  県下でも屈指のケヤキの巨樹である。
川田地区には南北朝時代に沼田氏の分家・川田氏の館があったが、この大ケヤキはその頃植えられたか 、あるいは自然木を社木としたものであろう。

L 発知のヒガンザクラ

  発知地区を見渡す高台にあり、苗代作りの頃に開花するので「発知の苗代桜」とも呼ばれる。 近くに、三浦系沼田氏の分家・発知氏が分家し築いた発知城の遺跡がある。

M 長谷川家書院

  高須隼人は前橋城主・酒井忠挙の家臣で、天和元年(1680)に真田氏五代伊賀守信直が徳川幕府に領地 を没収された後、沼田領の再検地の役目を帯びて係員250余名を伴って沼田へ来た。貞享三年(1686)九月に検地を終ったが、 時に長谷川家

N 涅槃像の図

  紙本、極彩。金表装。図柄は多くの涅槃図同様であるが、筆意が優れ金泥を多く用い色彩も鮮やかである。
  徳川家康の近臣で譜代大名となった土岐定政の曽孫・土岐頼長の菩薩のため、弟の土岐頼殷が元禄八年に祈願寺の大雄山増円寺 へ寄進したもの。
  頼殷は静岡の田中城主となり、その子の頼稔が寛保二年(1742)に沼田藩主となり、増円寺を沼田に再建した。 その際に本図を伝えた。

O 韓信忍耐図

  渡辺崋山筆、紙本、着色。落款は崋山樵者登。図柄は、長剣を帯び膝を屈した韓信、股をひらいて脅している無頼の徒に三人の徒輩、通り合わせ た行商、韓信の態度を洞察しているような白髪の高士。これらを巧みに配し、各人の表情、筆力、彩色ともに優れている。

P 十三仏図

  筆者未詳だが、不動明王を除く十二仏は良質の金泥描きで、天衣の文様は繊細複雑ながら一点一画を正確な筆致で描きあげている。非凡な絵師の作であろう。

Q 千手観世音菩薩坐像

  像体・台座・厨子ともに漆箔の精巧で壮麗な像である。頂上仏・脇手などは、はぎつけてある。卵形の光背に巧みな技法がみられる。
  この千手観音は、寛文三年(1663)に沼田城主真田氏五代伊賀守が、沼田城の鬼門除けとして月夜野にあった常楽院法盛寺を幕岩城跡に移し、本尊とした事から「真田観音」とよばれた。

R 沼須一切経

  宝暦九年(1759)に、沼須村の小林多左衛門本房が発起人となり村民の喜捨300両で京都から求めたもので、寛文九年(1669)の鉄眼版である。
  毎年4月3日の砥石神社の祭礼に、 氏子が経箱をかついで町内の毎戸をまわる。

S 天正十八年下河田検地帳

  縦43.5cm、横15.5cmの和帳で紙数20枚。太閤検地帳といわれるが、表紙に「天正十八年八月二十五日下河田御検地帳」とあり、下部に右から『唐澤市左衛門尉、伊藤外記(花押)、小林文右衛門尉、井上小兵衛(花押)、山口与三左衛門尉 印、戸部左馬允(花押)』と書かれてあり、検地役であろう。
  同年 7月に真田信幸が利根・吾妻2万7千石の沼田城主となり、ただちに地検したものと思われる。県下でも貴重な検地帳である。

21. 文録二年下河田検地帳

  表紙に『文録二年癸巳十月拾二日下河田検地帳』と書かれた3冊からなる。縦31cm、横20cm、大判美濃紙二つ折りの和帳で3冊の厚さは28cm。  内容は『下畠弍升蒔廿文謙状文左衛門  中田弍升八合蒔九拾六文同人小作左衛門五郎』といった形式で記載してある。
  太閤検地は、それまで360歩を1反歩としていたものを300歩に改め、「畝」の単位を設けたというが、本検地帳では「弍升蒔廿文」というように面積を反歩でなく「何升蒔」としている。県内でもまれに見る検地帳で、貴重な土地文献である。

22. 文録二年下河田屋敷帳

  田畑検地と同時に行なわれた屋敷についての調査書である。豊臣秀吉が天正十九年に全国の戸口調査を実施した際に作られたものであろう。他の3冊の検地帳と同型で5枚とじ、うち2枚は表紙で中の3枚に氏名・屋敷数が筆書きされている。奥書に『文録二年癸巳十月十二日  矢沢薩摩守頼綱、小林文左衛門尉殿 へ』と記してある。
  矢沢頼綱は、真田昌幸の伯父で、天正八年六月に昌幸と共に沼田城に、入り同十年から5回にわたり小田原北条氏の攻撃を撃退した智将で、本検地の責任者であった。

23. 真田河内守信吉の墓

  『天桂院殿前河州大守月岫浄珊大居士墓  滋野朝臣  真田信吉  寛永十一甲戌歳十一月念八日』の刻銘がある。屋蓋に真田家の紋「六連銭」を刻み、威厳と風格がある。
  真田信吉は初代城主信幸の嫡子で、母は大連院。元和二年(1616)に信幸が上田に移った後、二代沼田城主を継ぎ、寛永十一年(1634)十一月二十八日に江戸屋敷で没した、40歳、遺骸は沼田へ送られ迦葉山で火葬し、天桂寺に葬られた。

24. 発智兵部左金吾平為時の墓

  上川田城主・東光寺開基・発智為時の逆修塔である。『逆修  大室  得用  発智  兵部左金吾平為時  応安  己酉  八月十八日』の刻銘が有り、典型的な古塔である。
  発智氏はね三浦系沼田氏三代景盛の子の三郎景宗が発知に分家し発智氏と称したのが始まりで、景宗の弟の兵部為時が上川田 に城(上川田城)を築いて移り住んだ。東光院殿大室得用大居士。

25. 加沢平次左衛門の墓

  加沢平次左衛門は、沼田城主真田伊賀守信直の家臣である。元和元年(1681)十一月に伊賀守が改易・取りつぶしとなった時、徳川幕府の上使から沼田城の諸事について尋問を受けて詳細に供述した。後に、川田城跡の一隅に隠棲し、元禄五年(1692)五月二十八日に没した、65歳
  角形の墓石で正面に『覚誉皈本居士』『覚誉特本大姉』左側面に『申五月廿十八日  加沢氏墓』の刻銘がある。
  加沢が生前に記述した「加沢覚書」は、後世に「加沢記」し称し、利根沼田・吾妻郡を中心とした戦国時代初期から天正十八年(1590)までの歴史を調べるうえでの重要資料である。また同人が記述した「沼田領品々覚書」は、真田改易当時の沼田領の諸般が記されている。

26. 大蓮院殿の墓

  塔身に、好意輪観音・勢至菩薩・聖観音(梵字)『大蓮院殿英誉皓月元和六年庚申  二月廿四日  施主敬白』の刻銘がある。
  大蓮院は本多忠勝の娘で名は小松姫といい、家康が養女にして、天正十七年(1589)に真田信幸に嫁がせた。
  天正十八年七月に信幸が沼田城主となり、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦には徳川方についた。西軍につくことになった父の昌幸、弟の幸村が佐野犬伏から上田に帰る途次に沼田城を訪れた際、城を守り入城を拒んだことで女丈夫と謳われた。
  元和六年(1620)に病み、二月に療養のため江戸から草津に来る途中の同月二十四日に武州鴻巣で没した、48歳。同所で火葬にして分骨し、同所の勝願寺・沼田の正覚寺・上田の芳泉寺にそれぞれ葬られた。ある資料によると本多忠勝の妻は家康の孫、小松姫はひこ孫にあたる。

27. 慶寿院殿の墓

  正面に『慶寿院殿妙久日栄大姉尊位』、台側面に『寛文第九屠維作  歳  仲夏下院浣七冥』の刻銘がある。屠維は(己つちのと)、作  は(酉とり)、仲夏は(五月)、下院浣七冥は(廿七日没)である。慶寿院は名が「小野お通」真田信吉の側室で五代城主伊賀守信直の母である。
  寛文七年(1667)に本隆寺を改築して慶寿山妙光寺と寺名を改め、自ら開基となり、寛文九年五月二十七日に没した。

28. 禁芸碑石塔

  旅芸人や行商人が寺内に入るのを禁じるために建てられた碑である。
  利根・沼田の山間地のみに残っているといわれる石碑のうちの一基で、『禁芸術売買う之輩  天明六丙午年六月吉辰  惣村中林堂代庚申塔』の刻銘がある。

29. 勝軍地蔵雨宝殿

  入母屋造。正面三間、側面四間。一重浜縁付。正面軒(向拝)唐破風付銅板葺。間口8.23m、奥行8.1m、平面積66u。ケヤキ材が多く、彫刻が施されている。内には、別件指定の勝軍地蔵と厨子などがある。
  この雨宝殿は、土岐氏九代沼田藩主頼功が、勝軍地蔵尊を祀るため文政十一年(1828)に建造した。『雨宝殿』の額が掲げられている。

30. 勝軍地蔵と厨子

  勝軍地蔵には次のような伝承がある。徳川家康が天正十二年(1584)に長久手で豊臣秀吉と戦った時、家康が危地に陥った。その際、近臣の土岐定政が家康の命で祈願をこめていた愛宕尊の霊験で家康は勝利を得た。 家康は戦場跡に残っていた石像を愛宕尊の化身と尊崇して、以来、定政に背負わせて出陣した。天正十八年(1590)に家康が関東に封じられた際に、定政はこの石造を与えられ守谷1万石の城主となった。以後、土岐氏は高槻・上ノ山・ 田中の各城主を経て老中職の頼稔が寛保二年(1742)に沼田藩主となり代々祭祀を続けてきた。
  厨子は勝軍地蔵尊石造を安置するため、寛政元年(1789)に造られた宮殿形である。

31. 五大尊図

  五大尊図は、土岐頼稔が京都所司代のおり朝廷から下賜それたといわれている。 城中不動院の什物であったが、廃藩の際に民間人の手に移った。五大明王図とも称し、中央に不動明王、上部降三世明王、東方に軍茶利明王、南方下部に大威徳明王、金剛夜叉明王を極彩色で描き筆意も秀れている。

32. 不動明王座像

  左手に

33. 有孔壷

  

34. 奈良古墳群出土品

35. 上発知町歌舞伎舞台

36. 神明宮大獅子頭一対

37. 神明宮の常夜燈

38. 砥石神社の七重の塔

39. 追母薬師堂の薬師如来・十二神将・十王仏

40. 沼須人形芝居一式

41. 薄根太々神楽

42. 沼須人形芝居

43. 沼田祇園囃子

44. 沼田城跡

  沼田歴史紹介の沼田城跡に説明されています。

45. 戸鹿野八幡宮

46. 荘田城跡

  沼田歴史紹介の荘田城跡に説明されています。

47. 川田城跡

  遺跡の中で説明されています。

48. 海野塚

49. 奈良古墳群

50. 小沢城跡

  沼田歴史紹介の小沢城跡に説明されています。

51. 馬かくれスギ

  迦葉山龍華院弥勒寺創設当時、あるいは、その時代前後に植えられたものであろう。杉としては、稀有の大木である。

52. コウヤマキ

  


解説と写真次回 資料は沼田市文化財ガイドより。 ※ 広ぼう及び周囲 ※ 海 抜 東西・ 11.89km 南北・ 23.95km 最高・ 2,019.3m 周囲・ 82.3km 面積・ 136.31ku 最低・ 250m ※ 市役所位置 東経・ 139゜02" 北緯・ 36゜38" 海抜・ 416.153m

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